54歳の田畑政治(1952年)

ヘルシンキ五輪で日本選手団団長を務める。

戦前に開催されたベルリン五輪以来の出場であったが、競泳は銀メダル3個の成績であった。

一方、田畑は帰国後に東京でオリンピックを開催できるように都知事や政府に働きかけ、1964年の東京五輪開催を実現させる。

40歳のアラン・チューリング

自宅に泥棒が入り、事件を警察に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年(マレー)と同性愛関係にあったことが警察の知るところとなった。同性愛は当時のイギリスでは違法であり、2人とも逮捕された。

入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた女性ホルモン注射の投与を受け入れた。

結果としてセキュリティ・クリアランスを剥奪され、GCHQで暗号コンサルタントを続けることができなくなった。

49歳の吉田秀雄

全国の開局ラッシュが本格化すると、申請者の中心であった各地方新聞社に対し、電通を通じて免許申請の手続きから、番組編成、番組制作の技術、営業の方法等に至るまでを全面的に支援、また出資協力はもとより必要があれば、地方局のスタッフとして電通社員を移籍させることまで行なった。

新聞雑誌発行部数公査機関「ABC懇談会」の創立を実現

17歳の赤塚不二夫

学校を卒業したが、家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し映画の看板を制作する新潟市内の看板屋に就職。
仕事柄、映画看板の制作に携わっていたことから花月劇場という映画館であらゆる映画を鑑賞することとなり、このときバスター・キートンや駅馬車、チャーリー・チャップリンの喜劇に感銘を受けたという。この時期に『漫画少年』への投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがあり、この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。

67歳の正力松太郎

日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)
1953年に日本テレビ放送網本放送開始。

普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た。街頭テレビそのものは、試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日テレが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には観衆が殺到した。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。