22歳の西郷隆盛

お家騒動、赤山の御用人をしていた父から切腹の様子を聞き、血衣を見せられた。これ以後、世子・島津斉彬の襲封を願うようになった。
伊藤茂右衛門に陽明学、無参和尚に禅を学ぶ
「近思録」を輪読する会を大久保利通らと結成

22歳の孫正義(1979年)

シャープに自動翻訳機を売り込んで得た資金1億円を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。
日本で、流行していた「スペースインベーダー」を、ブームが沈静化した後に大量に安価で買い取り、アメリカで売り出して大きな利益を得た。

またこの時期に結婚をしている。

22歳の水木しげる

所属する支隊の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、児玉中隊長の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。

敵の飛行機から機銃掃射された。さらに逃げていた所を原住民ゲリラに発見され、あわてて海に飛び込んで逃げた[、水木は銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、落ち武者狩りをやりすごしつつ、奇跡的に生還。
兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられた。「なぜ死なずに逃げたのか」と「死に場所は見つけてやるぞ」と言い捨てられた。これ以降、戦場ですら朗らかだった水木も流石に塞ぎこんで虚無主義的な考え方をするようになった。

陰惨な日々は続き、帰還してまもなく行軍中に風邪を引いた際にマラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく行方不明になりそうにもなったことも。

追い討ちをかけるように療養中に敵機の爆撃で左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けるなど、再び半死半生の状態に追い込まれた。

ニューギニアの病院で療養し、現地人のトライ族(水木いわく「土人」)たちと仲良くなる。
他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。

22歳の司馬遼太郎

本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。
司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。復員後は直ちに図書館通いを再開する。

22歳の安室奈美恵

シングル「RESPECT the POWER OF LOVE」の発売日であった3月17日に安室奈美恵実母殺害事件が起こる。事件のショックでしばらくは活動休止状態になると見られていたが、3月29日の『HEY!HEY!HEY!』の生放送で仕事を再開。

22歳の桜井和寿

アルバム『EVERYTHING』で「Mr.Children」としてメジャーデビュー。

この頃から100万枚売るというのが心の中にあったという。
ブレイクするきっかけはタイアップにあると考え、
レコード会社に「タイアップ取ってくれ」とも言ったという。

タイアップの世の中だった時代、「『だったら15秒の中で俺も勝負してやる』」と、秒数測って曲を書き、15秒の中で活きる曲をプールしておいたという。

初のシングル局「君がいた夏」
セカンドシングル「抱きしめたい」をリリース

22歳の中村俊輔

2000年のシーズンは、22歳でJリーグ最優秀選手賞、日本年間最優秀選手賞を受賞。2015年現在、Jリーグ最優秀選手賞受賞者の中では最年少。

U-23代表に選出され、同年に開催されたシドニーオリンピックでは4試合に先発出場を果たす。

22歳のアドルフ・ヒトラー

遺族年金を妹に譲るように一族から非難され、仕送りが止まる。水彩の絵葉書売りなどで生計を立てる。
このころヒトラーは食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔していたとされる。また暇な時に図書館から多くの本を借りて、歴史・科学などに関して豊富な、しかし偏った知識を得ていった。

22歳の高柳健次郎

静岡師範学校を経て1921年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)附設工業教員養成所卒業。同年、神奈川県立工業学校(現・神奈川県立神奈川工業高等学校)教諭になる。テレビの研究をはっきりと志すのは、1923年、フランスの雑誌に見つけた未来のテレビを描いたポンチ絵(風刺画)を見た時らしい。

22歳のタモリ

中退後間もなく叔父に福岡に引き戻され、朝日生命で3年近く保険外交員として勤める。この時期に同僚の2歳年上の一般女性と結婚。その後、旅行会社に転職するが、系列のボウリング場(大分県)に転属。支配人となる。

22歳のトーマス・エジソン

特許を取得した株式相場表示機は業界から大いに歓迎され、その特許権を譲ってもらいたいという申し出があった。最初、エジソン自身は5000ドルほどで特許権を売るつもりであったが、実際には4万ドル(現在の日本円だと約2億円相当)で買い取られた

22歳の森鴎外

衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。4年留学した鷗外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
最初の1年を過ごしたライプツィヒで、生活に慣れていない鷗外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人達であった。
また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつきあい、ライプツィヒ大学ではホフマンなど良き師と同僚に恵まれた。演習を観るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロの「システィーナの聖母」を鑑賞した。

22歳の田臥勇太

大学を3年半で中退した。2002年5月、スーパーリーグ・トヨタ自動車アルバルクに入団した。同年11月8日、02-03年の開幕戦新潟アルビレックス戦の第3クォーターから出場し、JBLデビュー。14分の出場で8得点、2アシスト。満員御礼となる3,323人の観客を動員した。レギュラーシーズン21試合・プレーオフ4試合すべてに出場し、通算113得点・63アシストを記録。チームの準優勝に大きく貢献し、新人王を受賞、オールスターにもファン投票1位で選出された。

22歳のカール・マルクス

懇意にしていた、バウアー教授が、反キリスト教著作のためにプロイセン政府から危険視される講義が禁止となった。岳父ヴェストファーレンも同じころに死去し、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となった

22歳の伊藤博文

井上馨の薦めで海外渡航を決意、井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(後の井上勝)らと共に長州五傑の1人としてイギリスに渡航。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。
ロンドンでは英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。

22歳のアインシュタイン

チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバー(英語版)と不仲であったために、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得つつ、論文の執筆に取り組んだ。