38歳のアラン・チューリング

この時期はより概念的な仕事にも取り組み、Computing Machinery and Intelligence(「計算する機械と知性」、1950年10月、「Mind」誌)という論文では人工知能の問題を提起、今日チューリングテストとして知られている実験を提案している。すなわち、機械を「知的」と呼ぶ際の基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をして人間か機械か判別できない場合に、その機械が「思考」していると言えるというものである

27歳の司馬遼太郎

金閣寺放火事件の記事を書いた。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫、貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。その後文化部長、出版局次長を務めた。

大阪大学医局の薬剤師と見合いにより最初の結婚

32歳の田中角栄

長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化の要望を受け、1950年10月に同社の社長に就任。
田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる。
それまで弱かった三島郡で支持を広げることとなった。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。

15歳の赤塚不二夫

父親が舞鶴港に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による水疱でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。