61歳の伊藤博文

伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らと共に日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張した。
1904年から始まった日露戦争をめぐっては、金子堅太郎をアメリカに派遣し、大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼している。1905年のポーツマス条約に結びつく。講和後は、勝利を手にした日本と敗戦国ロシアとの間の戦後処理に奔走