36歳の榎本武揚(1872年)

開拓使として北海道に赴く。

箱館戦争での敗北後、武揚は東京へ護送され投獄される。
榎本の処罰に対して木戸孝允た長州藩は厳罰を求めるが、黒田清隆・福沢諭吉らの助命によって2年間の投獄で住んだ。

以後、武揚は明治政府で働くことになり、最初の仕事は黒田清隆が次官を務めていた北海道開拓使であった。

52歳のフローレンス・ナイチンゲール(1872年)

40代では体調を長くくずしていたが、50代になり、ようやく体調も安定してきたナイチンゲールは、ナイチンゲール看護学校の卒業生を自宅に招き、リーダーになれそうな女性を選び出して積極的に支援したりもした。 52歳の時、自力で生活することが困難になった両親を訪問し、介護することを決意。理解しあえなかった過去の、失われた時を取り戻すべく家族との絆を深めていくナイチンゲールであったが、1874年には父のウィリアムを、80年には母フランシスを亡くした。

10歳の森鴎外

廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京。墨田区曳舟に住む。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族・西周の邸宅に一時期寄食した。翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある北千住に移り住む

31歳の伊藤博文

大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川 – 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した。