ガーター勲章の授与。
※イングランドの最高勲章
タグ: 1906年あの人は何をしていたか
58歳の東郷平八郎(1906年)
大勲位菊花大綬章(日本の勲章に中では2番目)ならびに功一級金鵄勲章(武人勲章)を授与。
44歳の新渡戸稲造(1906年)
京都帝国大学で法学博士の学位を受ける。
また、文部大臣・牧野伸顕により「日本のリーダー育成」にふさわしい人物として評価され、第一高等学校(現・東京大学教育学部と千葉大学医学部・薬学部の前身)の校長となった。
28歳の吉田茂(1906年)
7月、政治科を卒業
9月、外交官および領事館試験に受かり外務省に入る
※同期には首席で合格した広田弘毅(第32代総理大臣)がいる
外交官としては以後20年ほど中国に赴任する。
12歳の松下幸之助
父・政楠病没
17歳のアドルフ・ヒトラー
遺族年金の一部を母から援助されてウィーン美術アカデミーを受験するも不合格。以降、下宿生活を続ける。
アカデミー受験に失敗した時に学長に直談判し、人物デッサンを嫌う傾向から「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と助言された。
「画家から建築家へ望みを変えてから、程なく私にとってそれが困難である事に気が付いた。私が腹いせで退学した実科学校は卒業すべき所だった。建築アカデミーへ進むにはまず建築学校で学ばねばならなかったし、そもそも建築アカデミーは中等教育を終えていなければ入校できなかった。どれも持たなかった私の芸術的な野心は、脆くも潰えてしまったのだ…」
ヒトラーが書いたとされている絵画
出典;http://netgeek.biz/archives/51068
66歳の渋沢栄一
東京電力会社創立・取締役。京阪電気鉄道会社創立・創立委員長(後に相談役)。
27歳のアインシュタイン
博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理されている。この論文は「ブラウン運動の理論」に発展した。この年は「奇跡の年」として知られている。アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。バスの乗車中にベルンの時計台の針が不動に見えることから着想した無名の特許局員が提唱した「特殊相対性理論」は当初、周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。