34歳のフローレンス・ナイチンゲール(1854年)

1854年にクリミア戦争が勃発すると、転機が訪れた。ロンドンタイムスにより、クリミア戦争の前線における負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況となっているかが伝えられるようになると、一気に世論は沸騰する。
ナイチンゲールもクリミア戦争に自ら志願して38名の看護婦を率い従軍。

後方基地と病院のあるスクタリに向かい、11月に到着。しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、必要な物資が供給されていなかった。さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否した。ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。

34歳のロバート・キャパ

1947年にアンリ・カルティエ=ブレッソン、デヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャーらと国際写真家集団「マグナム」を結成。同年にジョン・スタインベックらと共にソビエト連邦へ旅行に向かう。1948年にはイスラエルの建国と第一次中東戦争を取材した。

34歳の手塚治虫

日本初となる30分枠のテレビアニメーションシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった。
毎週放送のアニメーション番組を実現するために試行錯誤と創意工夫を積み重ねて作り出したさまざまなリミテッド・アニメの手法や様式は、その後の日本のアニメーション制作全般に大きな影響を与えることとなる。

テレビ放送の30分枠用に1本あたり2,000枚分の動画を動画家5名で担当し、一人が1日66枚を仕上げるという苛酷な労働状況が作られることとなった。また作品を破格の製作費で売り込んだことが制作部の首を絞めることになった。手塚がアニメの値段を安くして売り込んだのは、当時の普通のテレビ番組の制作費が50万程度であったことと、安くすればテレビアニメが普及させやすいのと、他の会社と差を付けるためだったと語る。
アニメーターの給料が安いのは手塚のせいであると雑誌で非難されることがあったが、杉井ギサブローは、手塚治虫が独自のリミテッド・アニメの手法を日本に定着させなければ日本は世界一のテレビアニメ生産国にはなっていなかったであろうとも語っている。

34歳の土方歳三

鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した近藤の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃の前に敗北する。
その後、江戸城に登城した土方歳三は、戦況を尋ねられると、「戎器は砲に非ざれば不可。僕、剣を帯び槍を執り、一も用うるところなし」と語り、洋式軍備の必要性を痛感.
新政府軍に包囲された近藤が投降。このとき歳三が近藤の切腹を止めて投降を勧めたとも、最後まで投降に反対したとも言われる。歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、近藤は板橋刑場(現JR板橋駅前に墓所有り)にて斬首された。