戦国時代から江戸時代に活躍した武士、大名。筑前国福岡藩の祖。キリシタン大名。
「天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり」
「まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだ。」
「神の罰や主人への罰は謝れば良いけど、臣下や領民に恨まれては許してもらえず、国を失うことになる。だから下の立場の者から恨みを買うことはないようにしなければ。」
「上司の人選ミスは、仕事のミスをした部下の失敗よりも重い」
戦国時代、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に勤めた稀代の名軍師
戦国時代から江戸時代に活躍した武士、大名。筑前国福岡藩の祖。キリシタン大名。
「天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり」
「まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだ。」
「神の罰や主人への罰は謝れば良いけど、臣下や領民に恨まれては許してもらえず、国を失うことになる。だから下の立場の者から恨みを買うことはないようにしなければ。」
「上司の人選ミスは、仕事のミスをした部下の失敗よりも重い」
播磨国(現 兵庫県南部)の姫路で生まれる。幼名は万吉。
父は黒田職隆(播磨国御着城主・小寺政職の家臣で、姫路城城代)。
※黒田一門は小寺の名を名乗っている
母が亡くなる。
この頃から文学に励むようになる。
この時、円満という僧侶から軍師・張良の話を聞かされた。
※張良は漢(中国)の高祖・劉邦に仕えた軍師
小寺政職の近習(主君のぞばに仕える者)となる。
父とともに土豪を討伐し初陣を飾る。
官兵衛の姉か妹が備前国の戦国大名浦上政宗の次男・清宗に嫁ぐ。
しかし、婚礼当日に浦上家と対立する龍野城主・赤松政秀の襲撃に遭い、官兵衛の姉か妹は政宗・清宗ともに討たれる。
21歳の時に父から黒田家の家督を継ぎ姫路城城代となる。
小寺政職の銘・光(てる)を正室に迎える。
青山・土器山の戦いが勃発。
龍野城主・赤松政秀が3000の兵で姫路城へ侵攻してくる。
この戦いで黒田軍は300程度しかいなかったが、英賀城城主・三木通秋の援軍もあり、なんとか赤松軍を撃退する。
しかし、重臣の井手友氏(叔父)・母里小兵衛・母里武兵衛(官兵衛の幼なじみ)が戦死した。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の取り次ぎにより、岐阜城で織田信長に謁見する。
長男の松寿丸(後の黒田長政)を織田信長のもとへ人質として送る。
※松寿丸は秀吉の居城・長浜城で過ごす
主君の小寺政職ら播磨国の大名や領主らが毛利方に付こうとする中、黒田家は織田方に従う姿勢を見せ、織田家家臣の羽柴秀吉に姫路城を明け渡す。
また、官兵衛は秀吉の参謀として仕える。
有岡城主で織田家家臣であった荒木村重が謀反を起こす。
この時、官兵衛は旧知の仲であった荒木村重を説得しに行くが幽閉される。
幽閉は約1年続き、この間に皮膚病を煩い片脚が曲がってしまう。
一方、黒田官兵衛が戻ってこないことに織田信長は寝返ったと思い、人質だった松寿丸の処刑を命じる。
しかし、秀吉の参謀であった竹中半兵衛が偽の首を送るように秀吉に進言し、松寿丸を助けた。
主君・小寺政職が織田軍によって討伐され、大名・小寺家が滅ぶ。
これ以降、織田家臣として羽柴秀吉に仕えた。
毛利方の備中高松城を攻める。
この城攻めでは秀吉が水攻めを行うが、堤防を築いて水をせき止めるという最初の策を失敗するが、官兵衛が考案した船に土嚢を積んで沈める策で水攻めが成功する。
6月に本能寺で織田信長が死亡(本能寺の変)。
官兵衛は毛利家との和睦を秀吉に進言し中国大返しを成功させる。
山崎の戦いでも活躍し羽柴軍を勝利に導く。
四国攻めに宇喜多秀家の軍監として参戦。
※軍監とは軍事を監督する職
キリスト教の洗礼を受け「シメオン」の名を与えられる。
九州征伐に毛利勢の軍監として参戦。
日向方面(現 宮崎県)の先鋒を務め島津軍を破る(根城坂の戦い)。
九州平定後は豊前国(現 福岡県東部、大分県北部)を与えられる。
家督を嫡男の黒田長政に譲る。
小田原征伐。
官兵衛が降伏の使者として小田原城へ行き無血開城させる。
文禄の役。
総大将・宇喜多秀家の軍監として参戦。
晋州城攻めに加わる。
途中に病のため日本に帰るも、秀吉に戦線離脱したと見なされ追い返される。
慶長の役。
総大将・小早川秀秋の軍監として参戦。
蔚山城の加藤清正の所へ息子・黒田長政が救援へ行った際に、長政が留守にした梁山城が敵兵に襲われると救援に駆けつける。
豊臣秀吉が死去。
関ヶ原の戦いが勃発。
石田三成と厳しく対立してきた息子の黒田長政は、東軍の将として関ヶ原に参陣、家康とともに西上。
官兵衛は九州にいた。正面からぶつかることはせず、西軍につく不利を説き、説得にあたったものの不発。東軍方に味方し、九州にて西軍方の大友氏や毛利氏と戦う。
武将として、類いまれな活躍をした黒田父子は、筑前一国52万石を与えられる。
慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見の邸で亡くなる。
遺言はシンプルで、葬儀は地味に、国を治め、民を安んじるよう長政に伝えます。
辞世の句は
おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて
※意訳:思い残す言葉もなくて、ついに最期の時を迎えた。この先の道にも迷わない なるがままに任せていこう