1451年10月ごろ イタリア人の毛織物職人の子としてジェノヴァ(伊)に生まれたとされる。
幼年時代は明らかではないが、早くから商業の世界に身を置いたとされる。
1451年10月ごろ イタリア人の毛織物職人の子としてジェノヴァ(伊)に生まれたとされる。
幼年時代は明らかではないが、早くから商業の世界に身を置いたとされる。
1891年(明治24年)8月20日 熊本県春富村(現熊本県玉名市)に生まれる。
父が43歳の時の子供で「シゾウ(シソウ)」と名付けられた。
11月に京都石薬師・中山邸で次男として生まれる。
父は孝明天皇(121代目天皇)で母は中山慶子(父は権大納言・中山忠能)。
御称号(皇族における幼少時の呼び名)は祐宮(さちのみや)。
1歳の時に黒船が来航。
8月に紀伊国(現在の和歌山県)で6男として生まれる。
父は紀伊藩士の伊達宗広。
※宗光が生まれた伊達家は陸奥伊達家(伊達政宗の家系)の分家にあたる
※元々の名は伊達小次郎で、後に「陸奥」に改名
国学者であった父の影響により、幼少期の頃から尊皇攘夷の考えを持つようになる。
8歳の時に父が藩内での対立で失脚し、宗光は貧しい生活を送る。
※父は以後10年幽閉される
1月27日に薩摩国鹿児島城下加冶屋町二本松馬場(現・県立鹿児島中央高校内)で、父・東郷実友(薩摩藩士)と母・益子の4男として生まれる。幼名は仲五郎。
14歳の時に平八郎実良と名乗る。
12月15日に下野国安蘇郡吾妻郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)で父・富蔵、母・サキの長男として生まれる。幼名は兼三郎。
生まれた家は名主(なぬし、領主のもとで村政を担当した村の首長)であったが、それほど裕福ではなかった。
教育熱心な父の影響で、赤西小四郎のもとで儒学を学ぶ。
12月1日に静岡県浜名郡浜名町成子(現在の浜松市中区成小町)で生まれる。
実家は裕福な造り酒屋で、別荘を持っていた。
しかし、祖父・父ともに病気(結核)で亡くなっていて、田畑自身も若いときに医師から30歳ぐらいまでしか生きられないと言われていた。
小学校で大好きだった水泳を始める。
12月31日に江戸牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)で生まれる。
父は旧幕臣の津田仙(下総佐倉藩出身で士族)。
幼少の頃は父の影響(幕府の崩壊で職を無くす)で向島で暮らすようになる。
向島では父の農園を手伝う他、習い事にも通った。
9月11日に陸奥国岩手郡盛岡城下(現・岩手県盛岡市)で、父・新渡戸十次郎(盛岡藩士)の3男として生まれる。
父は盛岡藩主・南部利剛の用心(主君の命を家中に伝達し庶務を司る)を務めていた。
幼少期には藩校の作人館に通い学問や武芸を学ぶほか、新渡戸家と親しい医者から英語を学ぶ。
幼少の頃に、新渡戸家に来た明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に励むべし」と声をかけられたことで、農学を志すようになった。
10月26日に日向国飫肥藩(おびはん、現在の宮崎県日南市一帯)で、父・小村寛平(飫肥藩の下級藩士)と母・梅子の長男として生まれる。
小村家は飫肥藩の産物方を務めていた。
9月22日に東京神田駿河台(現在の東京都千代田区)に竹内綱の5男として生まれる。
父は自由民権運動の主導者・板垣退助の腹心であったが、茂が生まれる前に反政府陰謀の罪で逮捕される。
母は茂が生まれる前に東京にいた吉田健三(竹内綱の親友)もとに身を寄せて茂を生んだ。
※3年後に吉田健三の養子となる
少年期は義母に厳しく育てられた。
10月5日に江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋)で榎本武規の次男として生まれる。幼名は釜次郎。
父・榎本武規は伊能忠敬のもとで「大日本沿海輿地全図」の作成にも関わっている。
幼少の頃は近所に住んでいた田辺石庵のもとで儒学を学ぶ。
3月11日に肥前国佐賀城下会所小路(現 佐賀県佐賀市水ヶ江)で生まれる。
父は佐賀藩士の大隈信保で家柄は上級武士。
8月10日に薩摩国鹿児島城下高麗町(鹿児島県鹿児島市高麗町)で生まれる。
父は薩摩藩士・大久保利世。家格は下級武士。幼名は正袈裟(しょうけさ)。
幼少期は下加治屋町に移り住み、藩校では西郷隆盛らと共に学問を学んだ。
胃が弱く武術はできなかったが、学問では読書や討論を得意とし藩校の中では抜きん出ていた。
8月15日にフランス王国領コルシカ島のアジャクシオで生まれる。
父のカルロ・マリア・ブオナパルテと母のマリア・レティツィア・ラモリーノの4男として生まれる。
もともとコルシカ島はジェノヴァ共和国(現在はイタリアの都市)の島で、島民はイタリア風の生活をしていたが、ナポレオンが生まれる2ヶ月前にフランス王国に売却された。
1809年2月12日、移動労働者の父トーマス、母ナンシーの長男としてケンタッキー州ラルー郡の辺境ホジュンヴィル郊外の丸太小屋で生まれた。姉セアラとの姉弟だった
明治時代から昭和時代に活躍した日本の軍人(海軍)。第26・27代連合艦隊司令長官。
「内乱では国は滅びない。戦争で国が滅びる。」
「人は神ではない。誤りをするというところに、人間味がある。」
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」
「どんなことでも部下の失敗の責任は長官にある。下手なところがあったらもう一度使う。そうすれば必ず立派に成し遂げるであろう。」
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」
4月4日に新潟県古志郡長岡本町(現在の長岡市)で生まれる(五十六は6男)。
父は旧越後長岡藩士の高野貞吉。
※生まれは山本家ではなく高野家
「五十六」という名は父が56歳の時の子であったため。
幼少の頃から、アメリカ人宣教師のところで聖書を学ぶ。
海軍兵学校に32期生として入学(200人中2番で入学)。
兵学校に入学した理由は、10歳年上の甥・高野力が病弱であったため兵学校を諦め病死した時に、力の両親から「五十六が力の代わりに立派な軍人なってくれれば」という話が原因と言われている。
※海軍兵学校は192人中11番で卒業
戦国時代から江戸時代に活躍した武士、大名。筑前国福岡藩の祖。キリシタン大名。
「天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり」
「まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだ。」
「神の罰や主人への罰は謝れば良いけど、臣下や領民に恨まれては許してもらえず、国を失うことになる。だから下の立場の者から恨みを買うことはないようにしなければ。」
「上司の人選ミスは、仕事のミスをした部下の失敗よりも重い」
播磨国(現 兵庫県南部)の姫路で生まれる。幼名は万吉。
父は黒田職隆(播磨国御着城主・小寺政職の家臣で、姫路城城代)。
※黒田一門は小寺の名を名乗っている
母が亡くなる。
この頃から文学に励むようになる。
この時、円満という僧侶から軍師・張良の話を聞かされた。
※張良は漢(中国)の高祖・劉邦に仕えた軍師
平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武士、政治家。
鎌倉幕府の初代征夷大将軍。
「自分の身を重々しく、気長に心を保つようにし、軽率な行動はすることなく、力のなさそうな的を見ても侮らず、冷静にじっくりと計画を練るようにせよ。」
「大きな野望をかなえようと考えている者は、こまkなことを咎めることをせず、ささいなことを取り立てて問題にしないのである。」
「今は天下が始まろうとしている次期であり、それがばぜ必要とされているのかの根本的な理由を、深く突き詰めて考えるべきである。」
「合戦の時は、諸国の住民の気持ちを大切にする必要がある。」
尾張国熱田(現 愛知県名古屋市熱田区)で生まれる。幼名は鬼武丸。
父は河内源氏の源義朝。母は由良御前(熱田大宮司・藤原季範)。
室町時代後期から戦国時代にかけての国人領主、戦国大名、毛利氏12代目当主
「一年の計画は春に立て、一ヶ月の計画はその月の一日に立て、一日の計画は朝に立てる」
「百万の心を一つにする」
「言葉は心の使いである、言葉によって、その人の善悪、才能、剛勇か臆病、利口か愚かか、正直かそうでないかがわかる」
「3人の力を一つにまとめよ」
3月14日に安芸国の国人領主・毛利弘元の次男として生まれる。幼名は松寿丸。
戦国時代の武将、出羽国・陸奥国の戦国大名、伊達氏第17代目の当主
「仁に過ぎれば弱くなる、義に過ぎれば固くなる、礼に過ぎれば諂い(へつらい)となる、智に過ぎれば嘘をつく、信に過ぎれば損をする」
「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」
「大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが良し」
「朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし、元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ」
9月5日に出羽国の米沢城で生まれる。幼名は梵天丸。
父は伊達氏16代目当主の伊達輝宗。
4歳の頃に天然痘にかかり、右目を失明する。
6月4日に備中国賀陽郡(現 岡山県岡山市)で生まれる。
父は庄屋・郡奉行を務めていた犬飼源左衛門。
※源左衛門は庭瀬藩(備中松山藩の分家)に仕えていた郷士(下級武士で農民を兼業)
2歳の頃に父がコレラで亡くなり、以後の生活は苦しくなる。
1828年1月23日 鹿児島県 下級武士の家に長男として生まれる。
1820年5月12日、裕福な家庭である両親の2年間の新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられる。
幼少期は恵まれた教育を受ける。ラテン語などの外国語、ギリシア哲学・数学・天文学・経済学・歴史、美術、音楽、絵画、英語、地理、心理学、がを学習。慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。
1957年8月11日 在日韓国人実業家の二男として佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落に出生。
ソフトバンクグループの創業者。
1881年10月25日スペイン南部アンダルシア地方生まれた。長男。
父はアンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師
1930年8月30日 ネブラスカ州オマハで生まれる。
父・ハワードは証券業を営んでいた(後に共和党の下院議員を務める)。
バフェットは幼い頃からビジネスを始めた。
祖父からコーラをセットで購入し売りさばいたり、ワシントン・ポストの配達のアルバイト、ゴルフ場のボール拾い、競馬の予想新聞の販売などを行った。
1955年2月24日、シリアからの留学生で政治学を専攻する大学院生アブドゥルファター・ジャンダリとアメリカ人の大学院生ジョアン・シーブルとの間に生まれる。
ジョアンの父が、ムスリムのシリア人であるアブドゥルファターとジョアンとの結婚を認めなかったため、誕生以前から、養子に出すことに決められていた。
結果、ジョブズはジョブズ夫妻に引き取られることになった。母であるジョアンはジョブズ夫妻が大学卒でないことを知り養子縁組を躊躇していたが、ジョブズ夫妻がジョブズを大学に進学させることを約束したために養子縁組が成立したという。
三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年)12月26日、岡崎城 で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。
1534年5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として誕生。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。『信長公記』に拠れば、幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。
1922年 3月8日 – 大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区)に次男として生まれ、生後まもなく父の故郷である鳥取県西伯郡境町(現在の境港市入船町)に戻る。
1900年1月1日、岐阜県加茂郡八百津町で生まれる。
1900年6月29日、フランスのリヨンで5人兄弟の3番目として生まれる。
長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200石)・みちの長男として生まれる。武(たけ)、栄(はえ)、光(みつ)の三人の妹がいる。
1903年6月8日、北海道幌別郡(現・登別市)に生まれた。
生後まもなく両親の意思で受洗する。
1912年6月23日、アランが誕生
父の任期が続いており、両親はインドとイギリスのヘイスティングス[15]を行き来する生活を送っていた。そのため、アランと兄のジョンは、イギリスの友人に預けられる。文字を読むことは三週間で覚えたといわれる。また、数字に強くパズルが非常に得意だった。
6歳でセント・マイケルズ学校に入学した。担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づいたという。
スウェーデンのストックホルムにて、建築家で発明家の父 の4男として生まれた。8人の子をもうけた一家であったが、生活は貧しく、8人の子のうち成人したのはアルフレッドを含む4人の男子だけだった。父方の先祖にスウェーデンの科学者オラウス・ルドベック (1630–1702) がいる。幼少期から工学、特に爆発物に興味を持ち、父からその基本原理を学んでいた。
1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木(現:和歌山市禰宜)に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。家が松の大樹の下にあったところから松下の姓を用いたとする。
1903年、11月9日 父渡辺勝五郎(34歳)、母サト(21歳)の二男として福岡県小倉市(現・北九州市)で誕生
後に入社することになる電通の前身になる電報通信社が光永星郎により設立されてるのはこれに近い1901年。
1967年2月26日、父・納谷宣雄、母・由子の次男(兄である長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた。
母の弟)にサッカー指導者の三浦哲治がいる。
安室奈美恵 1977年9月20日
沖縄県那覇市首里に3人兄妹の末っ子として生まれる。
1923年8月7日、大阪府大阪市浪速区西神田町(現・塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。
兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。
新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。ただし、長兄は夭逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。
田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。
幼いころ吃音があり、浪花節を練習して矯正した。
フリードマンは1913年10月22日、洋服店洋服店を営んでいたユダヤ系の両親の次男として、ハンガリーのブダペストに生まれた。
1919年に福音派の学校に入学、1923年にマダーチ・イムレ・ギムナジウムに入学。
1908年4月28日、現在チェコのスヴィタヴィに生まれた。
シンドラー一家の信仰はカトリックだったが、シンドラー自身は宗教に関心がなく、カトリックの影響はほとんど受けることはなかった。
近隣のユダヤ人家族の子どもたちは、彼の遊び仲間だった。
桜井和寿 1970年3月8日東京に生まれる
勉強はできなかったが、親は勉強については文句を言わず、
教育方針は、「何か一つみんなより自信を持って
優れていると言えるようなものを身につけろ」ということだったという。
体育だけは一生懸命。
音楽は女がやるものだと思い込んでいて、
音楽の時間に絶対に歌わない姿勢を貫き、
音楽の先生から往復ビンタ20発ぐらいくらったけど、
それでも歌わなかったという。
「ROCKIN’ON JAPAN1995年2月号:桜井和寿インタビュー」より
1978年6月24日、神奈川県横浜市瀬谷区にて男4兄弟の末っ子として生まれる。3歳からサッカーボールを蹴りはじめ、4歳のときに横浜市戸塚区に引っ越す。1985年に深園FCに入団、本格的にサッカー人生を歩みだす。
1889年4月20日 オーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウ地方でバイエルン人の税関吏アロイス・ヒトラーの4男として生まれる。
1928年11月3日、摂津国であった大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に長男として生まれた。
曽祖父・手塚良仙は適塾に学んだ蘭方医で、1858年(安政5年)に江戸の神田お玉ヶ池種痘所(現在の東京大学医学部の前身)を設立した人物の一人でもある。
父はカメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回しの映写機を所有、治虫は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画、マックス・フライシャーやディズニーのアニメ映画を観ることができた。そのため治虫は幼少時から漫画家よりもむしろアニメ監督になることを夢見ていたという。
なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、手塚の家には田河水泡の『のらくろ』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」など、200冊を超える漫画本があったという
1935年(昭和10年)9月14日、満州国熱河省灤平県古北口古城裡(現在の中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県古北口(中国語版)との境界線)に赤塚藤七と妻リヨの6人兄弟の長男として生まれる。
太平洋戦争終戦から一週間後の1945年8月22日に福岡県福岡市、現在の南区に生まれる。母親は3度結婚し、子供を6人もうけた。祖父母に預けられて育ったため、父親とはあまり面会機会がない。
乳児時代は「赤ちゃんコンテスト」で優勝。
1899年1月20日 静岡県浜松市東区安新町に生まれた。
1885年4月11日 富山県射水市に土建請負業を営む父・正力庄次郎、母・きよの次男として生まれる。松太郎が生まれたとき、父・庄次郎は立山連峰の雪解け水で氾濫した庄川の修復工事に忙しく、松太郎に対面したのはお七夜の晩だった。
元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助がこの地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による。