戦国時代の武将、出羽国・陸奥国の戦国大名、伊達氏第17代目の当主
「仁に過ぎれば弱くなる、義に過ぎれば固くなる、礼に過ぎれば諂い(へつらい)となる、智に過ぎれば嘘をつく、信に過ぎれば損をする」
「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」
「大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが良し」
「朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし、元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ」
戦国時代の武将、出羽国・陸奥国の戦国大名、伊達氏第17代目の当主
「仁に過ぎれば弱くなる、義に過ぎれば固くなる、礼に過ぎれば諂い(へつらい)となる、智に過ぎれば嘘をつく、信に過ぎれば損をする」
「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」
「大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが良し」
「朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし、元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ」
9月5日に出羽国の米沢城で生まれる。幼名は梵天丸。
父は伊達氏16代目当主の伊達輝宗。
4歳の頃に天然痘にかかり、右目を失明する。
11月15日に元服して名を「伊達政宗」に改める。
「政宗」という名は、伊達氏9代目の伊達政宗にあやかった名。
13歳の時に、三春城主・田村清顕の娘(愛姫)を正室に迎える。
4月に、相馬氏との戦いで初陣を飾る。
この頃から父・伊達輝宗の代理として外交を担当する。
父から家督を譲られ、17歳で伊達氏の当主となる。
5月~8月中に隣接する蘆名氏と大内氏を攻める。
※小手森城の城内の者をことごとく撫で切りにする(近隣への見せしめ)
この時に、降伏した二本松義継によって父・伊達輝宗が拉致される。
政宗は義継を追い、阿武隈川付近で父と義継を銃撃する。
※政宗の父殺しの陰謀とも言われている
父の葬儀後、父の弔い合戦として二本松城を包囲するが、11月に二本松の援軍としてきた南奥州諸侯連合軍によって大敗する(人取り橋の戦い)。
関白・豊臣秀吉の惣無事令を無視し、各地に進軍する。
大崎氏を攻めるが、伯父・最上義光が大崎氏に付いたため敗れる(大崎合戦)。
しかし、母・義姫の仲介によって和睦し窮地を脱する。
蘆名氏を摺上原の戦いで破り、蘆名氏を滅ぼす。
豊臣秀吉の小田原征伐に従軍する。
豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍する。
長女の五郎八姫を徳川家康の六男・松平忠輝に嫁がせる。
関ヶ原の戦いが起こると、東軍に味方し東北で上杉氏を戦い勝利する(慶長出羽合戦)。
初代仙台藩主となる。
家臣の支倉常長らをメキシコ・スペイン・ローマへ派遣する(慶長遣欧使節)。
大坂冬の陣では、豊臣方との和議成立後に大坂城外堀を埋め立ての責任者となる。
大坂夏の陣では、真田隊と戦うも反撃にあい後退する。
がん性腹膜炎または食道癌のため死去。