江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の役人となる。
解放後、東京へ出てきた正造だったがゆく宛てが無かったところを、正造と同じ下野国出身の早川新斎の薦めで江刺県の役人となった。
江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の役人となる。
解放後、東京へ出てきた正造だったがゆく宛てが無かったところを、正造と同じ下野国出身の早川新斎の薦めで江刺県の役人となった。
大学南校(東京大学の前身)に入学。
貢進生(各藩から推薦を受け大学南校に入学した学生のこと)に選ばれ大学南校に入学する。
大学南校では5人の学友とともに留学運動を起こし政府に建議書を提出する。
そして、第1回文部省留学生に選ばれアメリカへの留学を果たす。
官営富岡製糸場設置主任となる。
工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。後にこれは、内務卿・大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米し、ナショナル・バンクについて学び、帰国後に伊藤の建議により、日本最初の貨幣法である新貨条例が制定される。