40歳のナポレオン(1809年)

第五次対仏大同盟の締結。

イベリア半島でのフランス軍の敗北を聞いたオーストリアは反旗を翻し、イギリスと対仏同盟を結ぶ。
しかし、ナポレオンは4月のエックミュールの戦いと7月のヴァグラムの戦いで辛勝し、オーストリアとジェーンブルンの条約を結ぶ(対仏同盟の崩壊)。

40歳のフローレンス・ナイチンゲール(1860年)

看護と衛生の大切さを広く一般に伝承することにも力を注ぎ、『看護覚え書(Notes on Nursing)』を出版。
クリミア戦争中に創設された「ナイチンゲール基金」に集まった5万ポンドで、ロンドンの聖トマス病院内にナイチンゲール看護学校が設立され、ナイチンゲールは指導者として後継者の育成に努めるようになる。
これを境に英国各地に同様の看護婦養成学校が作られるようになり、現在に近い看護婦養成体制が整えられる礎となった。

40歳の徳川家康

織田信長に従い武田勝頼攻め(天目山の戦)に参陣。
駿河国へ侵攻し蘆田信蕃の田中城を落とし、武田家家臣、穴山梅雪の誘降に成功し、武田氏滅亡後は、武田家の旧領駿河国を加増される。
駿府において信長を接待しているが、家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。
信長はこの接待をことのほか喜び、その返礼となったのが、本能寺の変直前の家康外遊となる。

堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態(結果的に穴山信君は横死している。)となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。

この後、天正壬午の乱で北条氏直と争ったあと和睦。
これにより武田氏旧領の甲斐国、信濃国に進出し、その大部分を所領に。

40歳の杉原千畝

7月領事館に救いを求めてやって来たユダヤ避難民等に同情し、本省の訓命に反して通過ビザを発給。
一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わり「ぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む」状態になり、さらに「痛くなって動かなくなった腕」を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。
ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら一カ月余寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族と共に今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移った。杉原は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した。そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。一家族につき、一枚のビザで充分であったため、家族を含めて少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられている。
9月5日、カウナス駅より国際列車で退去。プラハの日本総領事代理として赴任。

40歳のサン=テグジュペリ

「城砦」の執筆つづく。5月、フランス軍大敗走。アラスへ決死の低空偵察飛行。6月、アルジェに移動。休戦。8月、除隊になり帰国。11月、ギヨメ遭難死。アメリカの出版社からの要請やレオン・ウェルトの助言があって、参戦を促すためアメリカに向かう。大晦日、ニューヨーク着。

40歳のアラン・チューリング

自宅に泥棒が入り、事件を警察に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年(マレー)と同性愛関係にあったことが警察の知るところとなった。同性愛は当時のイギリスでは違法であり、2人とも逮捕された。

入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた女性ホルモン注射の投与を受け入れた。

結果としてセキュリティ・クリアランスを剥奪され、GCHQで暗号コンサルタントを続けることができなくなった。

40歳の手塚治虫

1968年には青年誌『ビッグコミック』(小学館)、『プレイコミック』(秋田書店)などが相次いで創刊し、青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』、『プレイコミック』に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけている。この時期の手塚の青年向け作品は安保闘争などの社会的な背景もあり、暗く陰惨な内容のものが多かった

40歳の赤塚不二夫

1975年「元祖天才バカボン」が日本テレビ系列で放映開始。
この時期には漫画家としては最も多忙を極め、週刊誌五本、月刊誌七本の同時連載をこなす一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。

40歳のタモリ

持ちネタの一つだった昭和天皇の物真似については、1985年5月14日、作家の筒井康隆のパーティーで披露したところ、それが翌週の「週刊読書人」に掲載され、右翼から脅迫を受けることとなり、最終的には所属事務所の田邊昭知社長が半監禁状態で右翼から抗議される事態に至った。

この事件以降、昭和天皇ネタは封印されている。

40歳の福澤諭吉

大久保利通と会談。大久保は諭吉のことを民権論者の首魁のように思っていたのでそれを否定し会談を終えた(「面白」(流石有名に恥じず。大久保の日記。)による)が、大久保は出版検閲の権限を文部省から内務省に移管したことで、秋山恒太郎が官吏を移動するという災難に遭った。これを見た諭吉は、『民間雑誌』に「内務卿の凶聞」という社説を大久保暗殺後に掲載。これが問題となり、編集長の加藤政之助が内務省警視局に呼び出され、『民間雑誌』は廃刊となる。
そこで目を付けたのが、薩長藩閥では無い、大隈重信の存在だった。諭吉は大隈を頼りに統計院(後の内閣統計局)を設立させる。統計院にはある秘密があり、設立直後から「憲法の調査立案」というおよそ統計と関係の無い機能を併せ持っていた。ここに、矢野文雄・犬養毅・尾崎行雄といった人材を投入し、大隈のブレーンとして活躍できるようにした。

40歳の勝海舟

坂本龍馬と出会う

神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、海舟は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた。この時の塾頭が坂本龍馬。
この後神戸海軍操練所も設立。
海舟は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。
海舟はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだという。 海舟が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期。この時の西郷との出会いが後の無血開城につながったのかもしれない。