30歳の大久保利通(1860年)

島津久光に初めて会う。

久光へ近づくために、久光が好きだった囲碁を習ったと言われている。

勘定方小頭格につくと、翌年には御小納戸役につき藩政に関わるようになる。
※小納戸とは殿様の身の回りの世話をする者

51歳のエイブラハム・リンカーン(1860年)

1860年2月27日、ニューヨークのクーパー・インスティテュートで「南部の現存する奴隷制度について、穏健な態度と方法で奴隷制の拡大を毅然として阻止すべきだ」と演説。演説内容は新聞に全文掲載され、東部における名声を不動のものとした。
5月16日の共和党全国大会において合衆国大統領候補に指名される。
11月6日、大統領選挙が実施され、民主党ダグラス候補に大差をつけて当選を果たす
12月20日、サウスカロライナ州が連邦から離脱し、翌年にかけて計13州が連邦を脱退

40歳のフローレンス・ナイチンゲール(1860年)

看護と衛生の大切さを広く一般に伝承することにも力を注ぎ、『看護覚え書(Notes on Nursing)』を出版。
クリミア戦争中に創設された「ナイチンゲール基金」に集まった5万ポンドで、ロンドンの聖トマス病院内にナイチンゲール看護学校が設立され、ナイチンゲールは指導者として後継者の育成に努めるようになる。
これを境に英国各地に同様の看護婦養成学校が作られるようになり、現在に近い看護婦養成体制が整えられる礎となった。

25歳の福澤諭吉

咸臨丸の従者としてアメリカへ立つ。帰国し、蘭学塾から英学塾へと方針を転換する。この時同行した木村摂津守とは晩年まで親交があった。後に慶應義塾の土地を用意したのも木村であった。
アメリカでは文化の違いに驚きをもった。日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民がジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している。