23歳の水木しげる

8月25日、部隊長から「ポツダム宣言受諾」についての訓示を受ける。

軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だったという。

カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。

砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意した。

33歳のアラン・チューリング

戦時中の功績が認められ大英帝国勲章(OBE)を授与。

ある専門家によると、チューニングの暗号解読によって、数百万人の命が救われ、また戦争が約2年早く終わることになったといわれている。

51歳の松下幸之助

終戦翌日、幹部社員を集め、平和産業への復帰を通じて祖国の再建を呼びかける。続いて8月20日「松下電器全従業員に告ぐ」の特別訓示を行い、難局に処する覚悟を訴える

戦後ただちにGHQによって戦争協力者として公職追放処分を受ける。

42歳の吉田秀雄

終戦の8月15日、本社二階の広間のラジオの前に集まって、玉音放送を数十名の社員で聞いてた際、「これからだ」 吉田は と大きな声で叫んだという。
鉄かぶと、防空頭巾などをかなぐり捨て、社員の先頭に起って、社内外の清掃をはじめたという。

電通などを中心に「民衆放送」(後の東京放送)開設を申請。
吉田がまとめ役となる

22歳の司馬遼太郎

本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。
司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。復員後は直ちに図書館通いを再開する。

27歳の田中角栄

理化学興業の工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。
敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。田中土建工業は戦災を免れる。

37歳のオスカー・シンドラー

1945年工場内で終戦を聞く。従業員たちを集めて話もしたと言われている。

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1945年5月8日、シンドラーの元にあったユダヤ人たちから彼に一つの指輪が贈られた。この指輪は、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが感謝のしるしに、彼らが唯一持っていた本物の金歯からつくったものである。「一人の人間を救う者は世界を救う」 - タルムードにあるこの言葉が贈り物の指輪に刻まれた。

1945年11月から1950年5月まで、彼はレーゲンスブルクにいた。しばらくアルゼンチンに赴き、毛皮をとるためにヌートリアの飼育も手掛けたが、農場を閉鎖せざるを得なくなる。

56歳のアドルフ・ヒトラー

4月29日、親衛隊全国指導者ヒムラーがヒトラーの許可を得ることなく英米に対し降伏を申し出たことが世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。ヒトラーは激怒し、ヒムラーを解任するとともにその逮捕命令が出されたが、もはやドイツ国内はその執行すらできない状態であった。

遺書をタイプした後の午前2時、長年の恋人エヴァ・ブラウンと結婚式を挙げた。そして4月30日、毒薬の効果を確かめるため愛犬ブロンディを毒殺した後、午後3時に妻エヴァと共に総統地下壕の自室に入り、自殺した。

17歳の手塚治虫

戦時中の修業年限短縮により中学を4年で卒業。6月、勤労奉仕中に大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。
この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』や『どついたれ』などの自伝的作品の中にその様子が描かれている。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。

旧制浪速高等学校を受験したものの、不合格となった。同年7月、手塚は大阪帝国大学医学専門部の試験を受け、入学を許可された。医学専門部は戦争の長期化に伴い軍医速成のために臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもの。

手塚は焼け残った大阪の松竹座で海軍省製作の長編漫画映画『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、このとき将来必ず自分の手で漫画映画を作ることを決意したという。

10歳の赤塚不二夫

終戦を中国で迎える。

父は特殊警察の宣撫官という現地での人心をつかむという職務柄もあって、普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため彼には抗日ゲリラ側から当時の金額で2000円もの懸賞金がかけられていたにも関わらずに現地の村人からも密告されることもなく、終戦直後に報復として赤塚家の隣に住む日本人一家が中国人に惨殺される中で普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている。

この時のことを赤塚は
「爆発音に続く銃声が聞こえた。「襲撃だ!」おやじは言うが早いか制服に着がえてぼくと一緒に外に飛び出した。「ぼくも行く」と言ったからなのか、それとも「お前もこい!」とおやじがぼくを促したからなのかは定かではない。しかし、火事場見物ではない。深夜の殺し合いに、たとえ子供にせがまれたからといって連れて行くというのは考えにくい。やはりおやじは自分の意志で息子をあえて殺戮現場に連れて行ったのだろう。
おやじが砦の外の村へ出たとき、村人の1人が敵に連絡すればそれまでである。だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで、おやじだけではなく赤塚家も襲撃されることがなかった。砦には時々、さまざまな物資を積んだトラックが到着した。おやじはその物資をよく村人に分けていた。「敵も味方も同じ人間じゃないか」なにか見返りを期待したわけではない、こちらに真心があればそれは必ず相手に通じるはずだ――これがおやじの人間観だった。」」と語っている

幼少期のタモリ

太平洋戦争終戦から一週間後の1945年8月22日に福岡県福岡市、現在の南区に生まれる。母親は3度結婚し、子供を6人もうけた。祖父母に預けられて育ったため、父親とはあまり面会機会がない。
乳児時代は「赤ちゃんコンテスト」で優勝。

60歳の正力松太郎

A級戦犯の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、巣鴨プリズン収容者の1人となった。
正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していた記録も残っている。日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、勝利期および読売新聞社、そして日本テレビ放送網を通じて日本政界に介入する計画がCIAでは「Operation Podalton」と呼ばれていた。

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65歳のアインシュタイン

広島市への原子爆弾投下報道に衝撃を受ける。9月2日に第二次世界大戦終結。アメリカは戦勝国となったが、アインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説する(ちなみに、ある日本人の記者が後にアインシュタインを訪ねた際、彼は記者に「敗戦国である日本には大変深く同情する。しかし戦勝国も暗い道を歩いている」と述べたことがあるという)