17歳の手塚治虫

戦時中の修業年限短縮により中学を4年で卒業。6月、勤労奉仕中に大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。
この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』や『どついたれ』などの自伝的作品の中にその様子が描かれている。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。

旧制浪速高等学校を受験したものの、不合格となった。同年7月、手塚は大阪帝国大学医学専門部の試験を受け、入学を許可された。医学専門部は戦争の長期化に伴い軍医速成のために臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもの。

手塚は焼け残った大阪の松竹座で海軍省製作の長編漫画映画『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、このとき将来必ず自分の手で漫画映画を作ることを決意したという。