60歳の田中正造(1901年)

明治天皇への直訴。

正造は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は継続し演説を行い続けた。

また、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に鉱毒事件についての直訴したが失敗する。
この時、正造は死を覚悟したと言われているが釈放された。

46歳の小村寿太郎(1901年)

第1次桂内閣で外務大臣に就任。

外務大臣としては日英同盟の締結(1902)や日露戦争後のポーツマス条約(1905)を成功させている。

また、アメリカの実業家であるハリマンが満州での鉄道経営を日米共同経営という提案をしてきた際には、桂太郎総理が共同経営を推す中、寿太郎は反対しアメリカのと共同経営を拒否させた。

幼少期の山本五十六

海軍兵学校に32期生として入学(200人中2番で入学)。

兵学校に入学した理由は、10歳年上の甥・高野力が病弱であったため兵学校を諦め病死した時に、力の両親から「五十六が力の代わりに立派な軍人なってくれれば」という話が原因と言われている。

※海軍兵学校は192人中11番で卒業

20歳のパブロ・ピカソ

雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで初の個展。「青の時代」の始まり。

親友カサジェマスの自殺を契機に、ピカソは青色を基調とした暗い画面で悲哀に満ちた作品を描きだす。
《死せるカサジェマス》1901年

《自画像》

《うずくまる女性と子供》

梅毒に罹った売春婦たちが多く収容されていたサン・ラザール収容所を、ピカソは特別の関心を持ってよく訪れました。包み込むように子供を抱きかかえ、目を閉じて子供に寄り添う母親と、目を伏せてじっと下方を見つめる子供。その姿に悲しみや絶望感が伝わってきます。不安な母親の気持ちを表すかのように、衣服や背景が青くうねるように表現されています。

22歳のアインシュタイン

チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバー(英語版)と不仲であったために、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得つつ、論文の執筆に取り組んだ。