吉田茂の名言・格言

明治時代から昭和時代に活躍した日本の外交官、政治家。

内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)。

第一復員大臣、第二復員大臣、農林大臣などを歴任。

皇學館大学初代総長、学校法人二松学舎第5舎長。

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「忙しいと疲れたは自慢にならん。」

「今に立ち直る。必ず日本は立ち直る。」

「三千年、いや四千年生きたい、しかし人は死ぬ。しかし国は行き続ける。」

「大志を抱けば、天下何ものか恐るるに足らず。」

「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある。」

幼少期の吉田茂

9月22日に東京神田駿河台(現在の東京都千代田区)に竹内綱の5男として生まれる。

父は自由民権運動の主導者・板垣退助の腹心であったが、茂が生まれる前に反政府陰謀の罪で逮捕される。

母は茂が生まれる前に東京にいた吉田健三(竹内綱の親友)もとに身を寄せて茂を生んだ。
※3年後に吉田健三の養子となる

少年期は義母に厳しく育てられた。

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58歳の吉田茂(1936年)

駐英大使に就任する。

駐英大使としてはイギリスとの親善を目指すも、東アジアでの情勢が悪化したことからうまくいかなかった。
また、広田内閣が組閣された際には、外務大臣になるはずであったが軍部の反対に合いかなわなかった。
※吉田茂は英米よりの考えをもっていたため軍部から反対をうけた

親英米の考えを持っていた吉田であったが、日独伊三国同盟には反対であった。

63歳の吉田茂(1941年)

太平洋戦争の勃発。

吉田は開戦直前まで米大使のジョセフ・グルーや外務大臣の東郷茂徳と会談し開戦阻止に動いていた。

日本海軍がミッドウェー海戦(1942)で敗れると、和平交渉のためにスイスに赴こうとするが、直後に日本軍が勝ったこともあり失敗する。

67歳の吉田茂(1945年)

憲兵隊に拘束される。

日本の敗色が濃厚となると終戦策として近衛上奏文に協力する。
しかし、この行為が軍部のスパイに見つかり憲兵に拘束される。

その後、敗戦した日本はGHQの占領下に入るが、GHQからは「反軍部」として信用された。

戦後は東久邇宮内閣と幣原内閣で外務大臣になる。

73歳の吉田茂(1951年)

サンフランシスコ平和条約の締結。

この条約締結は吉田の政治生命をかけたものであった。

この条約により、日本と連合国の間にあった戦争状態を終結させ、日本はGHQの占領から独立する。

演説の最後は

「われわは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります。われわれは平和、正義、進歩、自由に挺身する国々の間に伍して、これらの目的のために全力をささげることを誓うものであります。われわれは今後日本のみならず、全人類が協調と進歩の恵沢を享受せんことを祈るものであります。」

という内容で締めくくる。演説内容の全文はコチラ

またサンフランシスコ講和会議には白洲次郎が全権団顧問として随行。吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更された。

また、アメリカとは日米安保条約(旧安保)を結び、日本国内に米軍の駐留を認めた。