明治時代から昭和時代に活躍した日本の外交官、政治家。
内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)。
第一復員大臣、第二復員大臣、農林大臣などを歴任。
皇學館大学初代総長、学校法人二松学舎第5舎長。
「忙しいと疲れたは自慢にならん。」
「今に立ち直る。必ず日本は立ち直る。」
「三千年、いや四千年生きたい、しかし人は死ぬ。しかし国は行き続ける。」
「大志を抱けば、天下何ものか恐るるに足らず。」
「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある。」
明治時代から昭和時代に活躍した日本の外交官、政治家。
内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)。
第一復員大臣、第二復員大臣、農林大臣などを歴任。
皇學館大学初代総長、学校法人二松学舎第5舎長。
「忙しいと疲れたは自慢にならん。」
「今に立ち直る。必ず日本は立ち直る。」
「三千年、いや四千年生きたい、しかし人は死ぬ。しかし国は行き続ける。」
「大志を抱けば、天下何ものか恐るるに足らず。」
「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある。」
9月22日に東京神田駿河台(現在の東京都千代田区)に竹内綱の5男として生まれる。
父は自由民権運動の主導者・板垣退助の腹心であったが、茂が生まれる前に反政府陰謀の罪で逮捕される。
母は茂が生まれる前に東京にいた吉田健三(竹内綱の親友)もとに身を寄せて茂を生んだ。
※3年後に吉田健三の養子となる
少年期は義母に厳しく育てられた。
耕余義塾(神奈川県にあった私塾)を卒業する。
9月、高等商業学校(一橋大学の前身)に入学するが商売人に合わないと感じ中退。
3月、正則尋常学校(正則高等学校の前身)を卒業
9月、東京物理大学(東京理科大学の前身)に入学するが中退
10月、慶應義塾に入学するが中退
10月、学習院に入学
8月、旧制学習院高等学科(学習院大学の前身)を卒業
9月、学習院大学科に入学
9月、学習院大学科の封鎖により無試験で東京帝国大学法科大学に入学
7月、政治科を卒業
9月、外交官および領事館試験に受かり外務省に入る
※同期には首席で合格した広田弘毅(第32代総理大臣)がいる
外交官としては以後20年ほど中国に赴任する。
東方会議に参加。
奉天総領事として東方会議に参加し、対中強硬論者の森恪と「満蒙分離」論を支持。
※「満蒙分離」とは日露戦争後の満州・内蒙古での日本の特殊権益擁護問題のこと
田中義一内閣で外務次官となる。
駐英大使に就任する。
駐英大使としてはイギリスとの親善を目指すも、東アジアでの情勢が悪化したことからうまくいかなかった。
また、広田内閣が組閣された際には、外務大臣になるはずであったが軍部の反対に合いかなわなかった。
※吉田茂は英米よりの考えをもっていたため軍部から反対をうけた
親英米の考えを持っていた吉田であったが、日独伊三国同盟には反対であった。
太平洋戦争の勃発。
吉田は開戦直前まで米大使のジョセフ・グルーや外務大臣の東郷茂徳と会談し開戦阻止に動いていた。
日本海軍がミッドウェー海戦(1942)で敗れると、和平交渉のためにスイスに赴こうとするが、直後に日本軍が勝ったこともあり失敗する。
憲兵隊に拘束される。
日本の敗色が濃厚となると終戦策として近衛上奏文に協力する。
しかし、この行為が軍部のスパイに見つかり憲兵に拘束される。
その後、敗戦した日本はGHQの占領下に入るが、GHQからは「反軍部」として信用された。
戦後は東久邇宮内閣と幣原内閣で外務大臣になる。
内閣総理大臣(第1次吉田内閣)に就任。
首相となった吉田茂は戦争からの復興に尽力する。
日本国憲法の施行。
第23回衆議院議員総選挙では高知県全県区より日本自由党から立候補しトップ当選する。
一方、与党は日本社会党となり、吉田は総辞職する。
第2次吉田内閣を組閣。
与党の日本社会党と連立を組んでいた民主党から民主クラブ(田中角栄ら)が離党すると、日本自由党と合併し民主自由党を結成。
吉田は民主自由党の総裁となり総理大臣となった。
第3次吉田内閣を組閣。
第24回衆議院議員総選挙で圧勝する。
サンフランシスコ平和条約の締結。
この条約締結は吉田の政治生命をかけたものであった。
この条約により、日本と連合国の間にあった戦争状態を終結させ、日本はGHQの占領から独立する。
演説の最後は
「われわは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります。われわれは平和、正義、進歩、自由に挺身する国々の間に伍して、これらの目的のために全力をささげることを誓うものであります。われわれは今後日本のみならず、全人類が協調と進歩の恵沢を享受せんことを祈るものであります。」
という内容で締めくくる。演説内容の全文はコチラ
またサンフランシスコ講和会議には白洲次郎が全権団顧問として随行。吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更された。
また、アメリカとは日米安保条約(旧安保)を結び、日本国内に米軍の駐留を認めた。
内閣総理大臣を辞職。
アメリカからの独立後、吉田は第4次・第5次と内閣を組閣する。
しかし、日本民主党の鳩山一郎との対立や汚職事件など支持率をなくす。
そして、12月7日に内閣を総辞職する。
政界を引退。
内閣総辞職後、池田勇人(後の総理大臣)の自由民主党への入党(1957)や皇學館大学の総長に就任(1962)するが、1963年に政界を引退。
死去。戦後唯一の国葬となり、青山霊園に埋葬後、久保山墓地(神奈川県横浜市)に改葬された。