73歳のパブロ・ピカソ

1954年から1963年にかけて、ピカソは、敬愛するドラクロア、ベラスケス、グレコ、マネなどの巨匠たちが描いた名作の場面設定や人物などを援用し、自分のイメージで“ピカソ・バージョン”と呼べるヴァリエーションを繰り返し描いてシリーズ化

《ラス・メニーナス(ベラスケスによる)》1957年

《ラス・メニーナス》1957年

《マネの草上の昼食より》1960年

42歳のアラン・チューリング

1954年6月8日、家政婦がチューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死の結果、死亡したのは前日で、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていた。リンゴに青酸化合物が塗ってあったかの分析はなされなかったが[78]、部屋には青酸の瓶が多数あった。

後年の評価

1966年からACMは、コンピュータ社会に技術的に貢献した人物にコンピューター界のノーベル賞ともいえるチューリング賞を授与している。

1986年、ヒュー・ホワイトモアの戯曲「ブレイキング・ザ・コード」でチューリングが描かれた。1986年11月からロンドンのウェストエンドで公開され、1987年11月15日から1988年4月10日までブロードウェイで興行。1996年にはBBCでテレビドラマ化されている。

1999年、タイム誌の「タイム100: 20世紀の最も影響力のある100人」で、コンピューター創造に果たした役割からチューリングを選んでいる。

2009年8月、イギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するよう請願活動がをはじまり数千の署名が集まった。 イギリス首相のゴードン・ブラウンはこの請願を認め、2009年9月10日に政府として正式な謝罪を表明。

41歳のロバート・キャパ

1954年4月に日本の写真雑誌『カメラ毎日』の創刊記念で来日、市井の人々を取材した。程なく東京で『ライフ』から第一次インドシナ戦争の取材依頼を受け、北ベトナムに渡る。

 

5月25日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビン省のドアイタンにあるフランス軍陣地に向かう。午後2時30分ころドアイタンに到着。2名の後輩カメラマンと共にフランス軍の示威作戦へ同行取材中の午後2時55分、ドアイタンから約1キロの地点にある小川の堤防に上った際に地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。

26歳の手塚治虫

『火の鳥』の連載を開始、『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描き継がれた手塚のライフワークとなった。
雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行なってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった

19歳の赤塚不二夫

父親の友人の紹介で就職した東京のエビス化学工業所という化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けた。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まり、石森が主宰する「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加。仲間が増えた。