伯爵を授爵。
タグ: 1907年あの人は何をしていたか
69歳の大隈重信(1907年)
政界を引退し、早稲田大学総長へ就任。
文化事業に努め、ヨーロッパ文献の日本語訳事業や南極探検隊後援会長へ就任し
26歳のパブロ・ピカソ
民族博物館で見たアフリカ黒人彫刻の象徴的で抽象的な表現に感銘を受けた。
『アビニヨンの娘たち』製作
アヴァンギャルド(前衛芸術)の旗手としてまだ誰も見たことのない絵を描こうと、並々ならぬ意欲を持って挑んだ大作
描かれた当初、その革新的な表現を誰も理解することができず、友人や画家仲間の間では「ピカソは気が狂った」とさえ言われました。
4歳の知里幸恵
祖母モナシノウクと岡志別川沿いで二人暮らし。
祖母はユーカラクルであった。すなわちアイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手だった。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。
18歳のアドルフ・ヒトラー
母親クララを乳癌で失った。
ヒトラーにとって、癌の治療は特別な意味を持っていた。
後年、厚生事業のスローガンとして「健康は国民の義務」を定め、喫煙に対しても反タバコ運動を積極的に行った。環境や職場における危険を排除し(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。
22歳の正力松太郎
東京帝国大学法科大学独法科入学
45歳の森鴎外
11月陸軍軍医総監・陸軍省医務局長となる
67歳の渋沢栄一
帝国劇場会社創立・創立委員長(後に取締役会長)。