44歳の陸奥宗光(1888年)

日墨修好通商条約の締結。

日本は幕末に安政五ヶ国条約(米・蘭・露・英・仏との二国間条約)を初め「関税自主権がない、領事裁判権(外国人が日本で犯罪で起こしても、日本側が罰せられない)を認める」といった不平等条約を結んでいた。
明治維新後、欧米化した日本はこれら不平等条約の改正を1つの目標として外交を展開していく。

このような情勢の中、陸奥は外務省に務め駐米公使ならびに駐メキシコ公使を兼任する。
そして、11月には日本全権としてメキシコとの間で日墨修好通商条約を締結させた。
※日本初の平等条約で、メキシコにとってもアジアの国と結んだ初めての条約

55歳のアルフレッド・ノーベル

兄リュドビックが死去。この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞のに、「死の商人、死す」「アルフレッド・ノーベル博士:可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した」と書かれており、このことからノーベルは死後の評価を気にするようになったという。

26歳の森鴎外

1888年9月帰国、陸軍大学校教官の兼補を命じられた。帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 – 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった[18]。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる