黒田官兵衛の名言・格言

戦国時代から江戸時代に活躍した武士、大名。筑前国福岡藩の祖。キリシタン大名。

「天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり」

「まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだ。」

「神の罰や主人への罰は謝れば良いけど、臣下や領民に恨まれては許してもらえず、国を失うことになる。だから下の立場の者から恨みを買うことはないようにしなければ。」

「上司の人選ミスは、仕事のミスをした部下の失敗よりも重い」

23歳の黒田官兵衛(1569年)

青山・土器山の戦いが勃発。

龍野城主・赤松政秀が3000の兵で姫路城へ侵攻してくる。
この戦いで黒田軍は300程度しかいなかったが、英賀城城主・三木通秋の援軍もあり、なんとか赤松軍を撃退する。
しかし、重臣の井手友氏(叔父)・母里小兵衛・母里武兵衛(官兵衛の幼なじみ)が戦死した。

31歳の黒田官兵衛(1577年)

長男の松寿丸(後の黒田長政)を織田信長のもとへ人質として送る。
※松寿丸は秀吉の居城・長浜城で過ごす

主君の小寺政職ら播磨国の大名や領主らが毛利方に付こうとする中、黒田家は織田方に従う姿勢を見せ、織田家家臣の羽柴秀吉に姫路城を明け渡す。
また、官兵衛は秀吉の参謀として仕える。

32歳の黒田官兵衛(1578年)

有岡城主で織田家家臣であった荒木村重が謀反を起こす。

この時、官兵衛は旧知の仲であった荒木村重を説得しに行くが幽閉される。
幽閉は約1年続き、この間に皮膚病を煩い片脚が曲がってしまう。

一方、黒田官兵衛が戻ってこないことに織田信長は寝返ったと思い、人質だった松寿丸の処刑を命じる。
しかし、秀吉の参謀であった竹中半兵衛が偽の首を送るように秀吉に進言し、松寿丸を助けた。

36歳の黒田官兵衛(1582年)

毛利方の備中高松城を攻める。

この城攻めでは秀吉が水攻めを行うが、堤防を築いて水をせき止めるという最初の策を失敗するが、官兵衛が考案した船に土嚢を積んで沈める策で水攻めが成功する。

6月に本能寺で織田信長が死亡(本能寺の変)。
官兵衛は毛利家との和睦を秀吉に進言し中国大返しを成功させる。

山崎の戦いでも活躍し羽柴軍を勝利に導く。

54歳の黒田官兵衛(1600年)

関ヶ原の戦いが勃発。

石田三成と厳しく対立してきた息子の黒田長政は、東軍の将として関ヶ原に参陣、家康とともに西上。

官兵衛は九州にいた。正面からぶつかることはせず、西軍につく不利を説き、説得にあたったものの不発。東軍方に味方し、九州にて西軍方の大友氏や毛利氏と戦う。

武将として、類いまれな活躍をした黒田父子は、筑前一国52万石を与えられる。

58歳の黒田官兵衛(1604年)

慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見の邸で亡くなる。

遺言はシンプルで、葬儀は地味に、国を治め、民を安んじるよう長政に伝えます。

辞世の句は
おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて
 ※意訳:思い残す言葉もなくて、ついに最期の時を迎えた。この先の道にも迷わない なるがままに任せていこう

源頼朝の名言・格言

平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武士、政治家。

鎌倉幕府の初代征夷大将軍。

「自分の身を重々しく、気長に心を保つようにし、軽率な行動はすることなく、力のなさそうな的を見ても侮らず、冷静にじっくりと計画を練るようにせよ。」

「大きな野望をかなえようと考えている者は、こまkなことを咎めることをせず、ささいなことを取り立てて問題にしないのである。」

「今は天下が始まろうとしている次期であり、それがばぜ必要とされているのかの根本的な理由を、深く突き詰めて考えるべきである。」

「合戦の時は、諸国の住民の気持ちを大切にする必要がある。」

9歳の源頼朝(1156年)

保元の乱が起こる。
※保元の乱とは朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し戦った政変

この戦いで、父の源義朝は後白河天皇側につき勝利する(味方には平清盛もいた)。
一方、祖父の源為義は崇徳上皇側につき負け、義朝によって斬首される。

12歳の源頼朝(1159年)

上西門院(統子内親王の院号)ならびに二条天皇の蔵人(秘書的存在)となる。

平治の乱が起こる。
※平治の乱とは後白河上皇の家臣(院近臣)間の対立(平氏vs源氏)によって起こった政変。

この戦いで、源氏は敗れ父・兄弟とともに東国へ逃げる。
逃げる途中で離ればなれになり父は謀殺、次兄は傷の悪化で死亡、長兄は捕らえられ処刑される。
一方、頼朝は近江国(現 滋賀県)で捕らえられるが、平清盛の養母・池禅尼の助命嘆願によって処刑は免れ伊豆国へ流された。

33歳の源頼朝(1180年)

後白河法皇の皇子・以仁王から平家追討の令旨(命令書)が届く。

京都の宇治で以仁王が敗死したことで、頼朝はしばらく動かなかったが、平家が源氏追討を企てたことで挙兵を決意する。

しかし、相模国真鶴(現 神奈川県小田原市)で平家方に敗れ、安房国(千葉県南部)に逃れた。

安房国へ逃れたものの、房総半島に勢力を持っていた上総氏や千葉氏を配下にし、さらに武蔵国でも配下を増やすと鎌倉へ向かう。

そして、平維盛(清盛の孫)を富士川の戦いで破った。

さらに、全国各地の源氏が平家打倒のため挙兵する。

42歳の源頼朝(1189年)

奥州藤原氏を討伐。

6月に奥州藤原氏のもとへ逃れていた源義経の首を取るように圧力をかけ、藤原泰衡は源義経の屋敷を襲撃した。

源義経の首を確認した頼朝は7月に奥州藤原氏討伐を開始し、9月には藤原泰衡の首が頼朝の元へ届けられた。

毛利元就の名言・格言

室町時代後期から戦国時代にかけての国人領主、戦国大名、毛利氏12代目当主

「一年の計画は春に立て、一ヶ月の計画はその月の一日に立て、一日の計画は朝に立てる」

「百万の心を一つにする」

「言葉は心の使いである、言葉によって、その人の善悪、才能、剛勇か臆病、利口か愚かか、正直かそうでないかがわかる」

「3人の力を一つにまとめよ」

18歳の毛利元就(1516年)

兄で当主の興元が急死する。

後を継いだのは興元の嫡男・幸松丸だったが、2歳であったため元就が20歳で後見となる。

佐東銀山城の武田元繁が吉川領へ侵攻してくると、元就は吉川氏救援のため出陣する。
初陣ではあったが、武田元繁の討ち死にもあって武田軍を撃退させる(有田中井手の戦い)。

この頃に、吉川国経の娘を妻に迎える。

伊達政宗の名言・格言

戦国時代の武将、出羽国・陸奥国の戦国大名、伊達氏第17代目の当主

「仁に過ぎれば弱くなる、義に過ぎれば固くなる、礼に過ぎれば諂い(へつらい)となる、智に過ぎれば嘘をつく、信に過ぎれば損をする」

「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」

「大事の義は、人に談合せず、一心に究めたるが良し」

「朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし、元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ」

17歳の伊達政宗(1585年)

5月~8月中に隣接する蘆名氏と大内氏を攻める。
※小手森城の城内の者をことごとく撫で切りにする(近隣への見せしめ)

この時に、降伏した二本松義継によって父・伊達輝宗が拉致される。
政宗は義継を追い、阿武隈川付近で父と義継を銃撃する。
※政宗の父殺しの陰謀とも言われている

父の葬儀後、父の弔い合戦として二本松城を包囲するが、11月に二本松の援軍としてきた南奥州諸侯連合軍によって大敗する(人取り橋の戦い)。