陸軍・海軍を「天皇の軍隊」と規定。
また、軍人に対して、5つの基本道徳や政治に関わらないようにする「軍人勅諭」を発する。
タグ: 1882年あの人は何をしていたか
44歳の大隈重信(1882年)
3月に親友の小野梓と立憲改進党を結成。
この時、尾崎行雄(「憲政の神様」と呼ばれる)や犬養毅(後に29代総理大臣となる)が加わる。
10月、小野梓らと東京専門学校(後の早稲田大学)を開設。
26歳の犬養毅(1882年)
大隈重信が党首を務めていた立憲改進党に入党。
大隈重信の参謀役として活躍するほか、大同団結運動に参加し軍閥や財閥を批判した。
※大同団結運動とは帝国議会を開設しようとする自由民権運動の一派
また、東京専門学校(後の早稲田大学)の第1回議員にも選出される。
20歳の森鴎外
軍医本部付となり、プロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事し、早くも翌年3月には『医政全書稿本』全12巻を役所に納めた。
42歳の渋沢栄一
ちよ夫人死去。
47歳の岩崎弥太郎
大久保利通が暗殺され、1881年には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。
1882年には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。共倒れを危惧した政府の仲介で両社は合併を決定。1884年に日本郵船が発足する。
41歳の伊藤博文
1882年、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられる。プロイセン憲法の逐条的講義や歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。
47歳の福澤諭吉
前年の政変のため、政府主導で設立する予定だった「時事新報」を自ら創刊。創刊されるや否や1,500部全てを売る結果となり、この後、『時事新報』は一定の成功を収めることとなった。