犬養毅の名言・格言

江戸時代から昭和時代に活躍した日本の政治家。

第29代内閣総理大臣。文部大臣、逓信大臣、外務大臣、内務大臣を歴任。

「政党には、党勢拡張、政権獲得などという一種の病気がつきまとう。そのために、種々の不正手段に出たり、あるいは敵に向かって進む勇気を失ったりすることがある。これを監視し激励するのが言論に従事する人々の責任でなければならない。」

「そもそも政界百弊の根源は、選挙に莫大の金を要するがゆえなれば、まずもって現行選挙法を改正しなければならない。」

「仏教もキリスト教も道教も異途回帰で、要するに根本の信念を固めることにある。しかるに、現在の我方国民教育の不完全は、道徳の根本たる信念に導くべき教えが欠けている。」

「話せば分かる。」

幼少期の犬養毅

6月4日に備中国賀陽郡(現 岡山県岡山市)で生まれる。

父は庄屋・郡奉行を務めていた犬飼源左衛門。
※源左衛門は庭瀬藩(備中松山藩の分家)に仕えていた郷士(下級武士で農民を兼業)

2歳の頃に父がコレラで亡くなり、以後の生活は苦しくなる。

26歳の犬養毅(1882年)

大隈重信が党首を務めていた立憲改進党に入党。

大隈重信の参謀役として活躍するほか、大同団結運動に参加し軍閥や財閥を批判した。
※大同団結運動とは帝国議会を開設しようとする自由民権運動の一派

また、東京専門学校(後の早稲田大学)の第1回議員にも選出される。

55歳の犬養毅(1911年)

辛亥革命が起こる。
(清帝国に対して孫文らが起こした共和革命)

犬養毅は辛亥革命の援助のため中国に渡る。
孫文が日本へ亡命した際には、宮崎滔天(みやざきとうてん、日本で辛亥革命を援助した人物)の家にかくまう。

孫文は1912年に大総統に選出され中華民国が成立する。

57歳の犬養毅(1913年)

第1次護憲運動が起こる。

第1次大隈内閣の総辞職後、陸軍出身の山県有朋や桂太郎らが総理大臣となると軍政が強くなる。
中でも、1900年に第2次山県有朋内閣で制定された軍部大臣現役武官制によって、軍部大臣に現役武官の中将・大将が務めることになると、軍政・藩閥政治が強くなり政党政治は衰退することになった。

そんな中、1910年に政治改革と立憲主義を主張していた立憲国民党が結成されると、1913年には犬養毅が党首となる。

そして、犬養毅は立憲政友会の尾崎行雄と協力し護憲運動を展開、第3次桂内閣を約2ヶ月で総辞職させた。

この時の活躍によって、犬養毅と尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれた。

67歳の犬養毅(1923年)

第2次山本権兵衛内閣が発足。

犬飼毅は文部大臣と逓信大臣(逓信省は現在の総務省・日本郵便・NTTの前身)を務めるが、12月に虎ノ門事件(皇太子で後の昭和天皇である裕仁親王が狙撃される)が起こると、山本権兵衛は責任を取り総辞職。

68歳の犬養毅(1924年)

1月に第2次護憲運動が起こる。

第2次山本内閣が総辞職すると、貴族院議員の清浦奎吾が総理大臣となる。
清浦内閣の支持基盤は研究会(貴族院の会派)であったため、内閣は貴族院に大きく偏った。

この清浦内閣に対して、革新倶楽部(立憲国民党の後身)を率いていた犬養毅は、立憲政友会(衆議院の第1党)の高橋是清や憲政会の加藤高明らと協力して護憲運動を始める。
※革新倶楽部・立憲政友会・憲政会の3党を「護憲三派」という。

6月には加藤高明内閣が発足。

犬養毅は逓信大臣を務めた。
※加藤内閣下では普通選挙法・治安維持法など成立。外交では日ソ基本条約が締結。

一旦、政界を引退する。

73歳の犬養毅(1929年)

政界に復帰する。

犬養毅は政界を引退していたが、犬養を支持する支持者(とくに岡山県)が無理矢理に立候補させ衆議院選挙で当選させる。

犬養毅は当初は断っていたものの、結局は政界復帰を決断し、10月に立憲政友会の総裁となった。

75歳の犬養毅(1931年)

12月に内閣総理大臣に就任する。

1月から4月の間にロンドン海軍軍縮会議が開催される。
当時の浜口雄幸内閣は、この会議で話し合われていた補助艦保有数を巡って海軍の艦隊派と対立していた。
さらに、犬養毅は鳩山一郎とともに軍縮問題を内閣が決めるのは「統帥権の干犯」と言い反対した。
※統帥権とは軍を指揮する最高指揮権のこと

また、9月には満州事変が起こり第2次若槻内閣が総辞職すると、犬養毅は中華民国との話し合いで解決しようとする。

そして、12月に総理大臣になる。

76歳の犬養毅(1932年)

五・一五事件が起こり暗殺される。

犬養毅は高橋是清を大蔵大臣し積極財政を推し進め世界恐慌に対応した。

また、満州事変に対しては、軍部の主導で満州国を建国することに反対し、中国国民党の蒋介石と外交交渉での解決を目指す。
ただ、膨大な軍事費を出していることから軍部との関係はそれほど悪くなかった。

しかし、5月15日に日本を変えたいと思っていた海軍の青年将校と陸軍の士官候補生によって、襲撃され暗殺される。享年76。

犬養の死後、日本は軍部の独裁ならびに挙国一致内閣となっていった。