57歳の犬養毅(1913年)

第1次護憲運動が起こる。

第1次大隈内閣の総辞職後、陸軍出身の山県有朋や桂太郎らが総理大臣となると軍政が強くなる。
中でも、1900年に第2次山県有朋内閣で制定された軍部大臣現役武官制によって、軍部大臣に現役武官の中将・大将が務めることになると、軍政・藩閥政治が強くなり政党政治は衰退することになった。

そんな中、1910年に政治改革と立憲主義を主張していた立憲国民党が結成されると、1913年には犬養毅が党首となる。

そして、犬養毅は立憲政友会の尾崎行雄と協力し護憲運動を展開、第3次桂内閣を約2ヶ月で総辞職させた。

この時の活躍によって、犬養毅と尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれた。

57歳の司馬遼太郎

1980年代は下記の作品・人物をあつかった作品を発表。
『項羽と劉邦』(1980年、新潮社) – 楚漢戦争。連載時の題名は「漢の風 楚の雨」
『ひとびとの跫音』(1981年、中央公論社) – 正岡忠三郎(子規の妹正岡律の養子)
『菜の花の沖』(1982年、文藝春秋) – 高田屋嘉兵衛
『箱根の坂』(1984年、講談社) – 北条早雲
『韃靼疾風録』(1987年、中央公論社) – ヌルハチ、ホンタイジほか。明から清への興亡を、平戸藩出身の桂庄助の目を通し描く。

1986年には財団法人大阪国際児童文学館理事長に就任。

57歳のペリー

1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた。そこでは、以下のように述べている。

・任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
・日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
・中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」
・オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。