知里幸恵の生涯

知里幸恵(ちり ゆきえ、1903年(明治36年)6月8日 – 1922年(大正11年)9月18日)は、北海道登別市出身のアイヌ人女性。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ民族・アイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。


参考;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E9%87%8C%E5%B9%B8%E6%81%B5
 http://www9.plala.or.jp/shirokanipe/nenpyou.html

4歳の知里幸恵

祖母モナシノウクと岡志別川沿いで二人暮らし。
祖母はユーカラクルであった。すなわちアイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手だった。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。

17歳の知里幸恵

女子職業学校を卒業。気管支カタルを病む。
金田一は病気の幸恵にノートを送りユーカラなどのローマ字筆記をすすめる。
9月、豊栄尋常小学校開校10周年記念式典で祝辞を読む。
独自の表記法でカムイユカラなどの筆記を始める。
年末、初めて書いた神謡稿を金田一に送る。

19歳の知里幸恵

1922年
5月に上京し金田一京助宅に寄寓。
8月、心臓病発病。上京後につけていた日記は7月末で終わる。
9月18日、心臓麻痺で急逝。

死後、1923年『アイヌ神謡集』が刊行される。
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アイヌ人にとって身近な“動物の神々”が、アイヌ人の日々の幸せを願って物語るカムイユカラが文字として遂に後世に残された。文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績であった。

明治時代に入り絶滅の危機に瀕していたアイヌ文化アイヌ民族に自信と光を与え、重大な復権・復活の転機となった幸恵の『アイヌ神謡集』の出版は、当時新聞にも大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなった。また幸恵が以前、金田一から諭され目覚めたように多くのアイヌ人に自信と誇りを与えた。
幸恵の弟、知里真志保は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ人初の北海道大学教授となった。また歌人として活躍したアイヌ人、森竹竹市・違星北斗らも知里真志保と同様、公にアイヌ人の社会的地位向上を訴えるようになった。

近年その成果が再評価され、「その時 歴史が動いた」でも取り上げられた。

森鴎外の名言・格言

森鴎外(1862-1922)日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医者・陸軍軍医、官僚。

森鴎外の名言・格言

苦難が大きすぎて、
自分ひとりの力で支え切れない場合には、
家族から身を隠して一人で泣きなさい。

そして、苦悩を涙とともに洗い流したら、
頭をあげて胸を張り、
家族を激励するために家に戻りなさい。

日の光を借りて照る、
大いなる月であるよりも、

自ら光を放つ
小さな灯火でありなさい。

みんなが誉めるのは、
おべっかである。

六割が誉めて
四割がけなすのが人材である。

世間の人は虎を、
性欲の虎を放し飼いにして、
どうかすると、

その背に乗って
逃亡の谷に落ちる。

己の感情は
己の感情である。

己の思想も
己の思想である。

天下に一人も
それを理解してくれなくたって、
己はそれに安じなくてはならない。

人に言うべき事は、
最後まできちんと言うがよい。

全部は言いたくないことだったら、
むしろ初めから黙っていよ。

一匹の人間が
持っているだけの精力を、
一事に傾注すると、

実際、不可能な事は
なくなるかも知れない。

現在は
過去と未来との間に、
画した一線である。

この線の上に生活がなくては、
生活はどこにもないのである。

武士はいざという時には
飽食はしない。

しかしまた空腹で
大切な事に取り掛かることもない。

一々のことばを、
はかりの皿に載せるような事をせずに、

なんでも言いたい事を言うのは、
われわれ青年の特権だね。

足ることを知ることこそが、
幸福である。

10歳の森鴎外

廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京。墨田区曳舟に住む。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族・西周の邸宅に一時期寄食した。翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある北千住に移り住む

12歳の森鴎外

1874年東京医学校(のちの東京大学医学部)予科に入学
実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学(新入生71名。のちに首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)
定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に就いて漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。
語学に堪能な鷗外は、後年、執筆に当たって西洋語を用いるとともに、中国の故事などをちりばめた。

19歳の森鴎外

19歳で本科を卒業。卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。仲間たちの進めもあり12月陸軍軍医になる。

22歳の森鴎外

衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。4年留学した鷗外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
最初の1年を過ごしたライプツィヒで、生活に慣れていない鷗外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人達であった。
また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつきあい、ライプツィヒ大学ではホフマンなど良き師と同僚に恵まれた。演習を観るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロの「システィーナの聖母」を鑑賞した。

26歳の森鴎外

1888年9月帰国、陸軍大学校教官の兼補を命じられた。帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 – 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった[18]。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる

27歳の森鴎外

外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)、熱心に評論的啓蒙活動をつづけた。
読売新聞の付録に「小説論」を発表し、さらに同日の読売新聞から、弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。
その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆をつとめる民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円をもとに、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊(日清戦争の勃発により59号で廃刊)

32歳の森鴎外

日清戦争勃発により軍医として従軍。11月に大連に上陸。
翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団つきの従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の鷗外を訪ねた。
清との戦争が終わったものの、鷗外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督の樺山資紀等とともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。