86歳の杉原千畝

7月31日鎌倉市にて永眠。
千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、かつてのハルビン学院の教え子やモスクワ駐在員時代の同僚など、生前の千畝を知る三百人余が参列。

彼を外交官から追放した日本国政府による公式の名誉回復が行われたのは2000年10月10日になってのことだった。

44歳のサン=テグジュペリ

7月31日、9回目の出撃で、グルノーブル及びアヌシー方面の高空写真偵察につくが、ボルゴ基地を出たまま帰らなかった。地上に残した彼の最後の言葉は「ドレス・ダウン6号よりコルゲートに、滑走離陸してよろしいか」であった。ドレス・ダウンとは裸馬の意。彼の死亡については当初不明とされ、後にいろいろな説が出てきているが、ほとんどは結局不明としている。

19歳の知里幸恵

1922年
5月に上京し金田一京助宅に寄寓。
8月、心臓病発病。上京後につけていた日記は7月末で終わる。
9月18日、心臓麻痺で急逝。

死後、1923年『アイヌ神謡集』が刊行される。
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アイヌ人にとって身近な“動物の神々”が、アイヌ人の日々の幸せを願って物語るカムイユカラが文字として遂に後世に残された。文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績であった。

明治時代に入り絶滅の危機に瀕していたアイヌ文化アイヌ民族に自信と光を与え、重大な復権・復活の転機となった幸恵の『アイヌ神謡集』の出版は、当時新聞にも大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなった。また幸恵が以前、金田一から諭され目覚めたように多くのアイヌ人に自信と誇りを与えた。
幸恵の弟、知里真志保は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ人初の北海道大学教授となった。また歌人として活躍したアイヌ人、森竹竹市・違星北斗らも知里真志保と同様、公にアイヌ人の社会的地位向上を訴えるようになった。

近年その成果が再評価され、「その時 歴史が動いた」でも取り上げられた。

42歳のアラン・チューリング

1954年6月8日、家政婦がチューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死の結果、死亡したのは前日で、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていた。リンゴに青酸化合物が塗ってあったかの分析はなされなかったが[78]、部屋には青酸の瓶が多数あった。

後年の評価

1966年からACMは、コンピュータ社会に技術的に貢献した人物にコンピューター界のノーベル賞ともいえるチューリング賞を授与している。

1986年、ヒュー・ホワイトモアの戯曲「ブレイキング・ザ・コード」でチューリングが描かれた。1986年11月からロンドンのウェストエンドで公開され、1987年11月15日から1988年4月10日までブロードウェイで興行。1996年にはBBCでテレビドラマ化されている。

1999年、タイム誌の「タイム100: 20世紀の最も影響力のある100人」で、コンピューター創造に果たした役割からチューリングを選んでいる。

2009年8月、イギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するよう請願活動がをはじまり数千の署名が集まった。 イギリス首相のゴードン・ブラウンはこの請願を認め、2009年9月10日に政府として正式な謝罪を表明。