67歳の吉田茂(1945年)

憲兵隊に拘束される。

日本の敗色が濃厚となると終戦策として近衛上奏文に協力する。
しかし、この行為が軍部のスパイに見つかり憲兵に拘束される。

その後、敗戦した日本はGHQの占領下に入るが、GHQからは「反軍部」として信用された。

戦後は東久邇宮内閣と幣原内閣で外務大臣になる。

67歳の犬養毅(1923年)

第2次山本権兵衛内閣が発足。

犬飼毅は文部大臣と逓信大臣(逓信省は現在の総務省・日本郵便・NTTの前身)を務めるが、12月に虎ノ門事件(皇太子で後の昭和天皇である裕仁親王が狙撃される)が起こると、山本権兵衛は責任を取り総辞職。

67歳の正力松太郎

日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)
1953年に日本テレビ放送網本放送開始。

普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た。街頭テレビそのものは、試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日テレが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には観衆が殺到した。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。