幼少期のカール・マルクス

カール・ハインリヒ・マルクス(ドイツ語: Karl Heinrich Marx, 1818年5月5日 – 1883年3月14日)は、プロイセン王国(現ドイツ)出身のイギリスを中心に活動した哲学者、思想家、経済学者、革命家。
1818年5月5日、プロイセン王国モーゼル川河畔の町トリーアにて誕生
マルクス家は代々ユダヤ教のラビ(ユダヤ教に於いての宗教的指導者であり、学者でもあるような存在)であり、1723年以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。

6歳のカール・マルクス

第8子のカロリーネが生まれたのを機にマルクス家兄弟はそろって父と同じプロテスタントに改宗している。改宗した理由は資料がないため不明だが、封建主義的なプロイセンの統治や1820年代の農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで反ユダヤ主義が強まりつつある時期だったからかもしれない。
マルクスが小学校教育を受けたという記録は今のところ発見されていない。父や父の法律事務所で働く修司生による家庭教育が初等教育の中心であったと見られる

12歳のカール・マルクス

12歳の時にトリーアのギムナジウム(中高一貫校)に進む。
1830年にフランスで7月革命があり、ドイツでも自由主義が活気づいたプロイセン政府は反政府勢力への監視を強化し、ヴィッテンバッハ校長やそのギムナジウムも監視対象となった。1833年にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、学生が一人逮捕された。ついで1834年1月には父ハインリヒも議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止された。さらにギムナジウムの数学とヘブライ語の教師が革命的として処分された。
マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。

15歳のカール・マルクス

1833年にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、学生が一人逮捕された。ついで1834年1月には父ハインリヒも議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止された。さらにギムナジウムの数学とヘブライ語の教師が革命的として処分された。
マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。

17歳のカール・マルクス

卒業試験の結果は、宗教、ギリシャ語、ラテン語、古典作家の解釈で優秀な成績を収め、数学、フランス語、自然科学は普通ぐらいの成績だったという。

この頃のマルクスは文学への関心が強かった。当時のドイツの若者はユダヤ人詩人ハインリヒ・ハイネの影響でみな詩を作るのに熱中しており、ユダヤ人家庭の出身者ならなおさらであった。
マルクスも例外ではなく、ギムナジウム卒業前後の将来の夢は詩人だったという
10月にボン大学に入学。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた。

18歳になったマルクスはプロイセン陸軍に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している

18歳のカール・マルクス

政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で決闘ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという。しかも一般的だったサーベルを使っての決闘ではなく、ピストルでもって決闘したようである。
全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)。こうした生活で浪費も激しかったようだ。

夏に帰郷した時に貴族の娘イェーニと婚約

10月にベルリン大学に転校。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校(マルクス自身は、イェニーと疎遠になると考えて、この転校に乗り気でなかったという)

19歳のカール・マルクス

1837年と1838年の冬に病気をしたが、その時に療養地シュトラローで、ヘーゲル哲学の最初の影響を受けた。
ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。
父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500ターレル以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている。
父ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった

20歳のカール・マルクス

父ハインリヒが病死。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった。
博士号を得て哲学者になることを望むようになり、古代ギリシャの哲学者エピクロスとデモクリトスの論文の執筆を開始。
しかし、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった。

22歳のカール・マルクス

懇意にしていた、バウアー教授が、反キリスト教著作のためにプロイセン政府から危険視される講義が禁止となった。岳父ヴェストファーレンも同じころに死去し、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となった

24歳のカール・マルクス

左派が協力して創刊した新聞『ライン新聞』に寄稿するようになる。
同紙を実質的に運営していた社会主義者のモーゼス・ヘスはマルクスを高く評価し、「まだ24歳なのに最も深い哲学の知恵を刺すような機知で包んでいる。」と絶賛。
10月に当局は『ライン新聞』に対して反政府・無神論的傾向を大幅に減少させなければ翌年以降の認可は出せない旨を通達した。またルーテンベルクを編集長から解任することも併せて求めてきた。マルクスは新聞を守るために当局の命令に従うべきと主張し、その意見に賛同した出資者たちからルーテンベルクに代わる新しい編集長に任じられた。編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した。

一方で法律や節度の範囲内での反封建主義闘争は止めなかった。県議会で制定された木材窃盗取締法を批判したり、知事の方針に公然と反対するなどした。

25歳のカール・マルクス

検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと神聖同盟を結ぶロシア帝国を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、1843年3月をもって廃刊させられることなった。

編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『独仏年誌(ドイツ語版)』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、共同編集長に。

同年にイェーニと結婚。
親族で反対する者が多かったが、イェニーの意思は変わらなかった。
マルクスは「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い ―天上の主とベルリンの主を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い― を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と述べている

26歳のカール・マルクス

『独仏年誌』創刊。人気を得られず廃刊せざるをえなくなった。共同編集長のルーゲとも絶縁。
しかし寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受けた。
これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。
「生産的労働を行って、人間の類的本質を達成することが人間の本来的あり方」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べ自身の立場を「共産主義」と定義するようになる。
10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『聖家族』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった。
この諸策の中では「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した新しい弁証法を確立せねばならない」と訴えた」

27歳のカール・マルクス

寄稿していた雑誌がプロイセン政府から目をつけられる。寄稿している外国人を国外追放処となり、パリを去らなければならなくなった。パリ滞在は14か月程度であったが、マルクスにとってこの時期は共産主義思想を確立する重大な変化の時期となった。
ベルギー ブリュッセルに移住した。
4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移住。この頃からエンゲルスに金銭援助してもらうようになる。

30歳のカール・マルクス

小冊子『共産党宣言』を完成させる。
「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まる。ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説いている。
以下の有名な言葉で締めくくった。
「共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ」。

同年3月、革命の波及を恐れていたベルギー王レオポルド1世からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられ、またマルクス夫妻は逮捕された。
翌日に釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。
3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、カール・シャッパー、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた。

31歳のカール・マルクス

『新ライン新聞』を創刊し、各地で革命を煽動するも、いずれも鎮圧される。
また文無しとなる。
イギリスにうつり、極貧生活を送る。
貧困地区での生活は不衛生で、病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった。
借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという
それでもマルクスは毎日のように大英博物館図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強している。

33歳のカール・マルクス

ニューヨークで発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『ニューヨーク・トリビューン』のロンドン通信員に。借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである。

16歳の伊藤博文

吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため、塾外で立ち聞きしていたという。
吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。

18歳の伊藤博文

義兄の桂小五郎(後の木戸孝允)の従者となり長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(後の井上馨)と出会い、親交を結ぶ。
吉田松蔭が同年10月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。この時、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。この後、桂を始め久坂玄瑞・高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになる。

21歳の伊藤博文

公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]・加藤甲次郎を暗殺するなど、尊王攘夷の志士として活動

22歳の伊藤博文

井上馨の薦めで海外渡航を決意、井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(後の井上勝)らと共に長州五傑の1人としてイギリスに渡航。途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。
ロンドンでは英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。

23歳の伊藤博文

米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨と共に急ぎ帰国し6月10日に横浜上陸後長州藩へ戻り戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。

伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。

長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。この時、高杉の元に一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。後に伊藤は、この時のことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。

29歳の伊藤博文

工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。後にこれは、内務卿・大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米し、ナショナル・バンクについて学び、帰国後に伊藤の建議により、日本最初の貨幣法である新貨条例が制定される。

31歳の伊藤博文

大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川 – 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した。

41歳の伊藤博文

1882年、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられる。プロイセン憲法の逐条的講義や歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。

44歳の伊藤博文

朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印。
12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。
太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務める

45歳の伊藤博文

官僚育成のため帝国大学(現在の東京大学)を創設
当時あまり顧みられていなかった、女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を創設した(翌年には「女子教育奨励会」となる)。委員には、伊藤の他に実業家の渋沢栄一、岩崎弥之助や、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。

46歳の伊藤博文

井上馨を外務大臣として条約改正を任せたが、井上馨が提案した改正案に外国人判事の登用などを盛り込んだことが問題になり、閣内分裂の危機を招いたため外国へ向けた改正会議は中止、9月に井上馨が辞任したため失敗に終わった、同年6月から夏島で伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らと共に憲法草案の検討を開始

53歳の伊藤博文

2度目の首相を務めていた時、日清戦争がおこる。翌年の明治28年(1895年)4月に、陸奥宗光と共に全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約(馬関条約)に調印する。また、戦争前に陸奥がイギリスと治外法権撤廃を明記した条約を結び、条約改正に大きく前進した。

59歳の伊藤博文

立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。10月に政友会のメンバーを大勢入れた第4次伊藤内閣が発足するが、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こし翌34年(1901年)5月に辞任。政友会はその後西園寺公望・原敬らが中心となり伊藤の手を離れるが、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した

61歳の伊藤博文

伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らと共に日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張した。
1904年から始まった日露戦争をめぐっては、金子堅太郎をアメリカに派遣し、大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼している。1905年のポーツマス条約に結びつく。講和後は、勝利を手にした日本と敗戦国ロシアとの間の戦後処理に奔走

64歳の伊藤博文

韓国統監府が設置されると伊藤が初代統監に就任した。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握した[注釈 3]。

伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立。
韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていた(1907年)。

20歳の福澤諭吉

中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。
大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、「大坂で蘭学を学ぶ」よう説得されれ、大坂の中津藩屋敷に居候しながら緒方洪庵の適塾で学ぶ。

25歳の福澤諭吉

咸臨丸の従者としてアメリカへ立つ。帰国し、蘭学塾から英学塾へと方針を転換する。この時同行した木村摂津守とは晩年まで親交があった。後に慶應義塾の土地を用意したのも木村であった。
アメリカでは文化の違いに驚きをもった。日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民がジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している。

27歳の福澤諭吉

文久遣欧使節に翻訳方として同行する、欧州帝国主義を目の当たりにし衝撃を受ける。
ロンドンでは万国博覧会を視察し、蒸気機関車・電気機器・植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクでは、陸軍病院で外科手術を見学した。

28歳の福澤諭吉

帰国後、「西洋事情」などの著書を通じて啓蒙活動を開始。「理化学・器械学」が特に強調されており、病院・銀行・郵便・徴兵の制度や設備についても言及してある。
薩英戦争が起こったことにより幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行・松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳に当たった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった

32歳の福澤諭吉

横浜から再渡米。
帰国後、『西洋旅案内』を書き上げた。この年の末(12月9日)、朝廷は王政復古を宣言した。江戸開城後、諭吉は新政府から出仕を求められたが辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった