28歳のエイブラハム・リンカーン(1837年)

1837年スプリングフィールドで、州内で指折りの法律事務所「ジョン・トッド・スチュアート」に入所。弁護士活動も始める。
当時、すでに政治家としては州のホイッグ党を率いる神童的指導者として評判を得ていた

同僚たちのリンカーン評
「彼は悲しげな顔つきをした男で、陰気で、メランコリックだった」(ウィリアム・ハーンドン)
「持って生まれたメランコリーで、意気消沈の発作に陥りやすかった」(O・H・ブラウニング)
「メランコリーが常態で、時にそれが際立ち、時に極めて穏やかになったが、消え去ることはなく、一抹の悲哀感が残った。それを消し去るのが笑顔で、これは頻繁に見られた」(ジェイムズ・リーメン二世)

以降4年間、ジョシュア・スピードという青年と同居していた。

19歳のカール・マルクス

1837年と1838年の冬に病気をしたが、その時に療養地シュトラローで、ヘーゲル哲学の最初の影響を受けた。
ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。
父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500ターレル以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている。
父ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった