38歳の榎本武揚(1874年)

駐露特命全権公使に任命される。

前年には代理としてロシア帝国との樺太の国境について交渉し、翌年の5月にはロシア帝国の外務大臣・アレクサンドル・ゴルチャコフと樺太・千島交換条約を締結した。

また、日本で初の海軍中将にも任命される。

36歳の大隈重信(1874年)

オーストリア=ハンガリー帝国でウィーン万国博覧会が開催。

日本の公式初参加となったこの万博で、重信は博覧会事務局の総裁を務めた。
日本は神社や日本庭園を造営、浮世絵や工芸品を展示した。

大久保利通とは対立していたものの、征韓論論争や西南戦争(1877)の祭には大久保利通についた。
※大久保政権下では財務を担当し「大隈財政」と呼ばれた

12歳の森鴎外

1874年東京医学校(のちの東京大学医学部)予科に入学
実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学(新入生71名。のちに首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)
定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に就いて漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。
語学に堪能な鷗外は、後年、執筆に当たって西洋語を用いるとともに、中国の故事などをちりばめた。