幼少期の清水次郎長

1820年、駿河国有渡郡清水町美濃輪町(後の静岡県静岡市清水区)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれる。

あととりのいない叔父山本次郎八の養子となる。

周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、次郎長と呼んだことがその由来

自前の廻船業の家に生まれ、米穀商の山本の養子である次郎長にとって、読み書きそろばんのスキルは必須であり、塾に入門をさせられる。

しかし、7歳の頃、村学先生に学ぶも破門。8歳の頃、寺子屋に入門するも破門

悪童で手がつけられなかったため、10歳の頃、伯父の倉沢村兵吉の預かり子となり、一定期間、家を離れ外で育てられることとなった。

15歳の清水次郎長

1834 年、山本の家に戻った。養母のへそくり450両を盗み、江戸を目指す。次郎八が追ってを出し、捕まえるが次郎長は300両しかもっていなかった。その100両について何も答えないところをみて、次郎八は次郎長を放逐した。

次郎長はどうやら捕まることをみこして、100両強を隠していただようだ。その金を持って服を新調し、浜松の米相場を貼り、巨利を得た。

その巨利をもって清水に凱旋し、100両と玄米50石を次郎八に渡し、勘当も解かれた。

養父の次郎八は1835年に死去。次郎長は甲田屋の主人となる。

次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返している。

23歳の清水次郎長

次郎長は喧嘩の果てに人を斬る(殺したと思っていたが一命はとりとめたらしい)。

殺人をした自分との縁があると家族に迷惑がかかると、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、江尻大熊ら弟分とともに出奔し、無宿人となる。

三河方面に向かい、路銀が尽きた後は、賭場を開き博徒を集めて稼ぎを得た。放漫な生活ぶりではあったが、武術の鍛錬のため、旧備前藩士の浪人小川武一に弟子入りし、剣術だけは磨いていたという。

38歳の清水次郎長

甲州における出入りにおいて役人に追われ、逃亡先の尾張国名古屋で一帯を取り仕切る保下田久六の裏切りに遭い、女房のおちょうを失う(逃亡先で病死)。
1859年には尾張知多亀崎乙川において久六を急襲し、殺害。

久六を殺害された子分・博徒ネットワークは黙っていない。「昼伏夜行」で次郎長一派は尾張からの脱出を試みる。大政、石松などを連れ、甲州上州、越後、加賀、越前、さらに四国へと長い逃避行。

 

41歳の清水次郎長

1860年、子分の石松が、久六とも縁がある都田吉兵衛たちに殺害される。

都田吉兵衛は50両での手打ちを持ちかけたが、次郎長は受け入れない。

下田金平・吉兵衛らが沼津から清水港へ上陸し、次郎長を急襲するも次郎長は不在。

1861年、駿河国江尻追分において石松の敵である都田吉兵衛を殺害する。

48歳の清水次郎長

東海道筋・清水港の警固役を任命された。
旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦によって死亡した(咸臨丸事件)。
その後逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容し、向島の砂浜に埋葬し、翌年には「壮士墓」を建立した。新政府軍より収容作業を咎められたが、死者に官軍も賊軍もないと言って突っぱねたという。

60歳の清水次郎長

1880年頃
清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。
この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援したという口碑がある。

64歳の清水次郎長

「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕される。懲役4年を言い渡されるが、山岡鉄舟や養子とした天田愚庵らの尽力で翌年には釈放される。

天田愚庵が次郎長を釈放するために、世間にその功績を認めさせようと「東海遊侠伝・一名次郎長物語」を出版したのもこの年である。