60歳の清水次郎長

1880年頃
清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。
この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援したという口碑がある。