クリストファー・コロンブスの名言・格言

クリストファー・コロンブス

アメリカ大陸への航海者、冒険者。

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「完璧を怖れる必要はない。決してそこには到達しないから」

「船の生活を送る者は、知らず知らずのうちに、なにかと世界の秘密を知りたくなるものでございます」

「富は人を豊かにはしない。それは人をより忙しくするだけだ」

「0から1を創るのは、難しい。1から2を作ることは、易しい」

25歳のクリストファー・コロンブス(1476年)

1476年 西アフリカ-大西洋貿易の中心都市リスボン(ポルトガル)に居を定める。

その後、リスボンで、イタリア人の娘フェリパと結婚。
このころには、有力商人に雇用され、マデイラ諸島やギニア湾・アイスランドなどへの航海経験を積む中で、トスカネリの「「地球球体説」を確信し、西廻りルートでアジアに行く着想を得た。

34歳のクリストファー・コロンブス(1485年)

西廻りアジア・ルート案がポルトガル王ジョアン2世に拒否され、スペインへの移住を決意。

ポルトガルのフランシスコ会の推薦状を携えて、パロスのラ・ラビダ修道院を訪ね、修道士ファン・ペレス・デ・マルチェーナス(スペイン女王イザベル一世の聴罪司祭)の知己を得る。

同修道士の紹介により、イザベル一世に航海計画案を具申する機会を与えられた。

41歳のクリストファー・コロンブス(1492年)

1492年4月 イザベル一世が諮問委員会の否定的見解を無視して航海計画案を承認し、『サンタ・フェ協定』をコロンブスと締結。

『サンタ・フェ協定』により、コロンブスは、インディアス提督・副王ならびに総督に任じられ、裁判権ならびにインディアスでの戦利品や利益の10分の1の権利を保証された。

41歳のクリストファー・コロンブス(1492年)

1492年8月3日 スペインのパロス港から、第1回航海に出発。(乗員90名)
同年10月12日 現在のバハマ諸島のワットリング島(異説もある)を発見。『新大陸の発見』 その後、キューバ島・ハイチ島(サント・ドミンゴ島)を探検し、ハイチ島に基地を設け、翌年3月15日帰国した。

47歳のクリストファー・コロンブス(1498年)

1498年5月30日~1500年10月末 第3回航海。初めて南アメリカの海岸に到達。

しかし、ハイチ島(サント・ドミンゴ島)の植民地経営においては、植民者の不満や食料不足への対応などに不手際があり、逮捕されて本国に強制送還となった。『サンタ・フェ協定」で認められていた特権の大部分もはく奪された。

金栗四三の名言・格言

金栗四三

明治から昭和期のマラソン選手で指導者。日本最初のオリンピック選手(1912年ストックホルム/1920年アントワープ/1924年パリ)

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「勝っても、負けても努力して後れても決して恥とする処ではなく男子の愉快とする処」

「しかれども失敗は成功の基にして、また他日をその恥をそそぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ」

「運動の基調となる体格の点についての根本問題として、私は夫人の運動を是非とも奨励したいと思っている」

「たとえ小さい人であっても、努力することによって、日本一、世界一になれるといういい見本になれ」

19歳の金栗四三(1910年)

1910年(明治43年) 熊本県立玉名中学(現熊本県立玉名高校)から東京高等師範学校(現筑波大学)に入学した。

当時の東京高等師範学校の校長は嘉納治五郎であった。四三は嘉納校長から薫陶を受けることになる。

21歳の金栗四三(1912年)

1912年(明治45年) 第5回オリンピック(ストックホルム)に日本最初の代表選手として三島弥彦とともに参加。マラソンに出場したが疲労のため途中棄権した。

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玉名市ホームページより

23歳の金栗四三(1914年)

第一次世界大戦ぼっ発により、1916年に開催が予定されていた第6回オリンピック大会(ベルリン)は中止となった。四三は、選手としてのピーク年齢の時期に無念の事態となった。

26歳の金栗四三(1917年)

1917年(大正6年) 独協中学に移り、マラソンや駅伝の普及に一層力を尽くすようになった。
このころ、日本初の駅伝『奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走』を企画実行した。

29歳の金栗四三(1920年)

1920年(大正9年)2月14日 第1回の『東京箱根間往復大学駅伝競走』を企画実行した。
現在の『箱根駅伝』であるが、最優秀選手に贈られる「金栗四三杯」にその名を残している。
同年 第7回オリンピック(アントワープ)に、日本代表選手として参加。マラソン競技に出場し16位で完走。

31歳の金栗四三(1922年)

1922年(大正11年)5月21日 『七大学駅伝競走』を福島県須賀川市で開催。この時、早稲田大学からは「河野一郎」「河野謙三」らが参加している。「河野一郎」は戦前戦後の政治家で、後の河野太郎外相の祖父。
大会前日の夜、金栗四三は「マラソンと体育」という題で講演を行い、「正しく練習する」ことの重要性と「女性の体育」の重要性を説き、満場の聴衆は感銘を受けたという。

『運動の基調となる体格の点についての根本問題として、私は婦人の運動を是非とも奨励したいと思っている』

33歳の金栗四三(1924年)

1924年(大正13年) 第8回オリンピック(パリ)にも日本代表選手として参加。マラソン競技に出場したが、32km付近で意識不明となり完走はならなかった。
これ以降、四三は競技人生から引退し、後輩の指導に本格的に取り組むようになる。

41歳の金栗四三(1932年)

日本が1940年の東京オリンピック開催に正式立候補。四三は恩師嘉納治五郎からの要請を受けて上京。十文字高等女学校に所属し、オリンピック招致活動に協力するようになる。

陸奥宗光の名言・格言

江戸時代から明治時代に活躍した武士、外交官、政治家。

神奈川県・兵庫県知事、農商務大臣、外務大臣を務める。

不平等条約(領事裁判権の撤廃、関税自主権の回復)の改正に尽力する。

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「人より少なく苦労して、人より多くの利益を得ようとするのは、薄志弱行の者のやることだ。この考えが一度芽生えると、必ず生涯不愉快の境遇に陥る。」

「政治はアートなり、サイエンスにあらず。」

「勝者を過大評価し、敗者を過小評価するのは誠に人情の弱点なり。」

「失敗に屈せず、失敗を償う工夫をこらすべし」

明治天皇の名言・格言

日本の第122代目の天皇(一世一元制では日本最初の天皇)。

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「日本人としての心を常に磨きなさい。たとえ世の中が安泰の時代であろうとも。」

「空に届きそうなほどの高い山であろうとも、登ろうとする想いさえあれば道はみつかるものだ。」

「たとえ他人よりも遅れをとろうとも、正しき道を踏み外してはならない」

「どれだけ家が富み飽くほどの財産を築いたとしても、この世における自身の務めを怠ってはいけない。」

幼少期の陸奥宗光

8月に紀伊国(現在の和歌山県)で6男として生まれる。

父は紀伊藩士の伊達宗広。
※宗光が生まれた伊達家は陸奥伊達家(伊達政宗の家系)の分家にあたる
※元々の名は伊達小次郎で、後に「陸奥」に改名

国学者であった父の影響により、幼少期の頃から尊皇攘夷の考えを持つようになる。

8歳の時に父が藩内での対立で失脚し、宗光は貧しい生活を送る。
※父は以後10年幽閉される

14歳の陸奥宗光(1858年)

江戸に下向(出府)する。

江戸では安井息軒(やすい そっけん、儒学者)のもとへ弟子入りするが、吉原遊郭に頻繁に通っていたことがバレて破門させられる。

破門後は水本成美(律令学者)のもとで学ぶ。
この頃に、坂本龍馬や桂小五郎(木戸孝允)、そして伊藤博文と親交を持つようになる。

11歳の明治天皇(1864年)

禁門の変が起こる。

尊皇攘夷派の長州藩と公武合体派の薩摩藩・会津藩の間で起こった武力衝突。
前年に起こった八月十八日の政変によって京都から追放された長州藩勢力が、会津藩主で京都守護職であった松平容保を排除するために京都で市街戦を展開する。

この事件の後に、宮中に300人ほどの不審者侵入するという事件が発生し、睦仁はパニックに陥り失神したと言われている。

23歳の陸奥宗光(1867年)

海援隊に入る
※坂本龍馬が結成した私設海軍。薩摩藩からの援助も受けた。

坂本龍馬から「刀を二本も差さずとも、食っていけるは、俺と陸奥」と評される。

11月に坂本龍馬が暗殺されると(近江屋事件)、宗光は龍馬暗殺の黒幕と疑っていた三浦休太郎(紀州藩士)を海援隊の同士とともに襲撃する(天満屋事件)。
※この事件では新撰組とも戦った

15歳の明治天皇(1868年)

明治時代の開始。

1月に王政復古の大号令を発し新政府を樹立する。

4月には京都で鳥羽・伏見の戦いが勃発する。

同じく4月に五箇条の御誓文(新政府の基本方針)を発布し、閏4月には政体書(新しい政治制度)を発布する。

この中で、元号を「明治」に改めて一世一元制(天皇1人につき元号1つ)を定める。
また、江戸を東京に改称。

16歳の明治天皇(1869年)

中央政権の確立。

版籍奉還(藩の所有していた土地・人民を朝廷に返す)と廃藩置県(藩を廃し府・県を置く)を行う。
また、神道を国教として天皇を主体的君主とした。

戊辰戦争が終わると蝦夷を北海道に改称し日本に編入する。

明治天皇が西洋風に髪をすると日本国民も髪を切る者が増えた。

外交にも力を入れ、英国のヴィクトリア女王の子であるアルフレートが訪日した際には会談している。

31歳の陸奥宗光(1875年)

大阪会議が開かれる。
※大久保利通・木戸孝允・板垣退助らによって政治体制の改革が話し合われた
※立憲体制の樹立、三権分立、二院制議会の確立

この会議の結果、対立していた政府と民権派が互いに妥協たことで政治改革が行われ、陸奥は元老院の議官(議員)として政界に復帰する。
※陸奥は幹事に就任する

33歳の陸奥宗光(1877年)

西南戦争が勃発。

この時に、陸奥は西郷隆盛に呼応し政府転覆を謀った土佐立志社の林有造らと連絡を取っていたことが発覚し、禁固5年の刑を受けて山形で投獄される。

投獄中には妻・亮子に手紙を送るほか、英国の哲学者ジェレミ・ベンサムの著作の翻訳にも打ち込む。

36歳の明治天皇(1889年)

大日本帝国憲法の公布。

天皇大権(天皇の権限)を明記し日本は立憲君主制国家となる。
他にも、内閣制度・府県制・郡制・市町村制なども制定した。

当初の帝国議会は、藩閥政治派と政党政治派で対立が起こっていたものの、明治天皇は仲介・調停的な役割に徹した。

国民に対しては「教育勅語」を発して道徳の養成に力を入れる。

41歳の明治天皇(1894年)

列強との同盟と外国との戦争。

外務大臣・陸奥宗光のもとイギリスと日英通商航海条約(1894)を結ぶ。
※この条約は日本初の不平等条約が改正された条約
また、8年後にはイギリスと日英同盟(1902)を結ぶ。

一方、朝鮮半島を巡って清・ロシアと戦争をする。
これらの戦争中は、明治天皇は大本営(日本軍の最高統帥機関)で直接戦争指導をしている。

明治天皇個人としては両戦争に反対していたという

44歳の陸奥宗光(1888年)

日墨修好通商条約の締結。

日本は幕末に安政五ヶ国条約(米・蘭・露・英・仏との二国間条約)を初め「関税自主権がない、領事裁判権(外国人が日本で犯罪で起こしても、日本側が罰せられない)を認める」といった不平等条約を結んでいた。
明治維新後、欧米化した日本はこれら不平等条約の改正を1つの目標として外交を展開していく。

このような情勢の中、陸奥は外務省に務め駐米公使ならびに駐メキシコ公使を兼任する。
そして、11月には日本全権としてメキシコとの間で日墨修好通商条約を締結させた。
※日本初の平等条約で、メキシコにとってもアジアの国と結んだ初めての条約

47歳の陸奥宗光(1891年)

足尾銅山鉱毒事件が起こる。
※栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた公害事件

この事件で衆議院議員で立憲改進党の田中正造が国の責任を追及した際に、陸奥が対応し「質問の趣旨が分からない」と回答する。
※足尾銅山の経営者・古河市兵衛の養子には陸奥の次男がいた

50歳の陸奥宗光(1894年)

外務大臣に就任。

第2次伊藤内閣では外務大臣に就任し、英・米と通商航海条約を結び治外法権(領事裁判権)を撤廃させる(独・伊・仏との条約も改正する)。

一方、日清戦争が起こるとイギリスとロシアの介入を防ぐために交渉し中立の立場にさせる。

戦後には伊藤博文と共に日本全権として清との間に下関条約を結ぶ。