東郷平八郎の名言・格言

東郷平八郎

江戸時代から昭和時代に活躍した日本の武士、海軍軍人。

連合艦隊司令長官を務める。

世界三大提督の1人に選ばれている。
アメリカのニュース誌『タイム』の表紙を飾る初の日本人となる

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「東郷は運の良い男でございます。しかるに、必ずや勝利致しましょう。」

「海から来る敵は海にて防ぐべし。」

「咲くもよし散るもよし野の山桜、花のこころは知る人ぞ知る。」

「降伏するのであれば、その艦は停止せねばならない。しかるに、敵はいまだ前進している。」

23歳の東郷平八郎(1871年)

イギリスへ留学する。

海軍士官として官費で留学する。

イギリスではゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミーや商船学校ウースター協会で海軍技術を学んだ。

また、国際法についても学んだ。

留学中に、西南戦争(1877年)で西郷隆盛が死んだのを聞くと「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と西郷の死を悼んだ

45歳の東郷平八郎(1893年)

ハワイ王国でクーデターが起こる。

ハワイ王国のリリウオカラニ女王がアメリカとの不平等条約を撤廃する動きを見せると、アメリカ人がクーデターを起こす。

日本はハワイにいた在留日本人保護のために海軍を送る。
この時、東郷が海軍を指揮しクーデター勢力を威嚇砲撃した。

ハワイは1898年にアメリカにより併合された

55歳の東郷平八郎(1903年)

連合艦隊司令長官に任命される。

日清戦争後に舞鶴鎮守府初代司令長官となり京都にいたが、ロシアと緊張関係になると海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻される。
そして、第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命された。

元常備艦隊司令長官であった日高壮之丞が健康問題で指揮できなかったことから、当時の将官の中で1番に経験豊富であった東郷が選ばれた。

56歳の東郷平八郎(1904年)

日露戦争の勃発。

東郷は連合艦隊司令長官として旗艦「三笠」に乗り、旅順口攻撃(2月から5月)や黄海海戦(8月)で指揮をとった。
※旗艦とは司令長官が乗っている軍艦

翌年の5月27日には日本海海戦でロシア海軍のバルチック艦隊と戦い、敵の旗艦を撃沈させるばど日本海軍の勝利に貢献する。

日露戦争の勝利は日本だけでなく、ロシアの脅威にさらされていたオスマン帝国からも喜ばれ、同国民からは英雄として知られるようになった

田中正造の名言・格言

田中正造

江戸時代から大正時代に活躍した日本の政治家。
地域の公害問題解決のために戦い続けた。

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「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を荒らさず、人を殺さざるべし。」

「何事もあきれて物を言わぬとも、言わねばならぬ今のありさま。」

「憎まれれば憎まれるほど、人として自信が湧いてくる。」

「何事もすべてを打ち込んで事にあたれば、苦労もかえって喜びになる。」

幼少期の田中正造

12月15日に下野国安蘇郡吾妻郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)で父・富蔵、母・サキの長男として生まれる。幼名は兼三郎。

生まれた家は名主(なぬし、領主のもとで村政を担当した村の首長)であったが、それほど裕福ではなかった。

教育熱心な父の影響で、赤西小四郎のもとで儒学を学ぶ。

27歳の田中正造(1868年)

投獄される。

以前から、領主であった六角家との間で金銭に関するトラブルを抱えており、正造は村民らとともに抗議していた。
しかし、六角家は高家という幕府では格式の高い役職についていたことから、明治維新の直前に捕まり投獄される。
※縦横1mほどの牢に10ヶ月投獄される

30歳の田中正造(1871年)

再び投獄される。

江刺県の役人となった正造であったが、上司・木村新八郎の暗殺事件が起こると正造が犯人にでっち上げられる。
この時、正造は医者が来るまでに木村の応急措置をしていたが、正造の服に血が付いていたことや日頃から上司や他の役人らと言い争いをしていたことから疑われた。
※約3年の投獄後に木村新八郎の息子が無罪を証言したことで釈放される

獄中では厳しい取り調べがあったものの、書物を読んで西洋の政治などを学んだ。

39歳の田中正造(1880年)

栃木県議会議員となる。

県議会議員として地方自治に力を入れ、県令(現在の知事)・三島通庸と争う。
5年後には三島の暗殺事件(加波山事件)への関与が疑われ逮捕される。
※加波山事件は自由民権運動の1つ
逮捕されもたものの三島が異動になったことで釈放、1886年には第13回臨時県会で議長となる。

59歳の田中正造(1900年)

川俣事件の発生。

足尾銅山鉱毒事件の被害者が東京へ陳情(実情を調べ対処してくれと願うこと)しに行こうとした時に、地元の警官隊と衝突した事件。

この事件後に正造は国会で川俣事件に対しての質問をしたが、当時の総理大臣・山県有朋に「質問の意味が分からない」と返される。

川俣事件で逮捕された者は後に全員釈放される。

60歳の田中正造(1901年)

明治天皇への直訴。

正造は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は継続し演説を行い続けた。

また、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に鉱毒事件についての直訴したが失敗する。
この時、正造は死を覚悟したと言われているが釈放された。

津田梅子の名言・格言

江戸時代から昭和時代に活躍した教育者。

日本における女子教育の先駆者と評される。

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「環境より学ぶ意志があればいい。」

「何かを始めることは易しいが、それを継続することはなお難しい。成功させることはなお難しい。」

「広く、深く、身を捧げて愛することを学んでください。そうすれば人生を誤ることはないでしょう。」

「人生の導き手である良い書物は、その書物のなかで語る偉人たちの言葉は、求めれば皆さんのものとなるでしょう。」

幼少期の田畑政治

12月1日に静岡県浜名郡浜名町成子(現在の浜松市中区成小町)で生まれる。

実家は裕福な造り酒屋で、別荘を持っていた。

しかし、祖父・父ともに病気(結核)で亡くなっていて、田畑自身も若いときに医師から30歳ぐらいまでしか生きられないと言われていた。

小学校で大好きだった水泳を始める。

幼少期の津田梅子

12月31日に江戸牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)で生まれる。

父は旧幕臣の津田仙(下総佐倉藩出身で士族)。

幼少の頃は父の影響(幕府の崩壊で職を無くす)で向島で暮らすようになる。
向島では父の農園を手伝う他、習い事にも通った。

18歳の田畑政治(1916年)

18歳の時に浜名湾游泳協会の設立に関わる。

静岡県西部地区における水泳の競技力の向上・普及を目的に活動するアマチュアのスポーツ団体。

田畑は浜松中学校(現在の浜松北高校)の4年生の時に、盲腸炎と大腸カタルに罹り水泳選手になる夢をあきらめることになる。
しかし、田畑は水泳をあきらめることができず、指導者の道を歩むことに決めた。

そして、その第一歩として行ったのが浜名湾周辺の中学校水泳部を統括する「浜名湾游泳協会」の設立であった。

中学卒業後は第一高等学校(現在の東京大学教育学部)を経て、東京帝国大学法学部政治学科をに通い、休みがあるたびに浜名湾に戻って水泳の指導をした。

6歳の津田梅子(1871年)

6歳の時に渡米する。

父の津田仙が開拓使次官・黒田清隆と知り合いになると、黒田清隆が女子教育に関心を持っていたことから、娘の梅子を女子留学生として渡米させる。

津田梅子は岩倉具視をリーダーとする岩倉使節団とともに渡米する。
※梅子の他に4人の女学生が渡った(梅子は最年少)

10年ほどアメリカに住み、ラテン語やフランス語を学ぶほか、自然科学や心理学も学んだ。
※学校も卒業する

26歳の田畑政治(1924年)

朝日新聞社に入社。

会社では政治部に配属され政治家とも交流を持つようになる。
※鳩山一郎(戦後に第52・53・54代総理大臣となる)にも目をかけられるようになる

一方、水泳の指導者として「大日本水上競技連盟(現・日本水泳連盟)」の創立に参画する。

18歳の津田梅子(1883年)

桃夭女塾の英語教師となる。

アメリカから帰ってきた梅子だったが、当時の日本は女性が働ける場所が無かった。
また、梅子自身も日本語が通訳なしでは話せなくなっていた。

一方、伊藤博文から招待され、伊藤への英語指導ならびに通訳のために伊藤家に住むことになる。
また、私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介されて、梅子はこの塾の英語教師となる。

35歳の津田梅子(1900年)

女子英学塾の開校。
※後の津田塾大学

アメリカから帰ってきた津田梅子は明治女学院や女子高等師範学校に勤めるほか、女性が学校へいけるように支援する。

そして女子英学塾を開校すると、行儀作法の女子教育(花嫁修業など)ではなく自由な授業を行った。
また、資金援助が少なかったことから経営は苦しかったものの社会法人とした。

50歳の田畑政治(1948年)

日本水泳連盟の会長に就任。

この年に開催されるロンドン五輪の出場を目指していたが、戦後すぐということから日本はドイツとともに参加を断られる。この状況に対して、田畑は日本代表の実力を見せるべくロンドン五輪の開催日時に合わせ日本選手権を開催した。
この思い切った開催の影響もあり、翌年には国際水泳連盟に日本を復帰させた。

この年に朝日新聞の代表取締役にも就任(1952年には同社を退社)

54歳の田畑政治(1952年)

ヘルシンキ五輪で日本選手団団長を務める。

戦前に開催されたベルリン五輪以来の出場であったが、競泳は銀メダル3個の成績であった。

一方、田畑は帰国後に東京でオリンピックを開催できるように都知事や政府に働きかけ、1964年の東京五輪開催を実現させる。

64歳の田畑政治(1962年)

日本オリンピック委員会(JOC)会長と選手強化対策本部常任顧問を辞任。

第4回アジア競技大会がインドネシアで開催される。
しかし、この大会はホスト国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒否したことで、国際オリンピック委員会(IOC)から正規の大会ではないと通告される。
※インドネシアが共産諸国やアラブ諸国との連携強化のために、台湾(中国と関係が悪い)やイスラエル(アラブ諸国との中東における宗教問題)といった政治問題で拒否した。

日本でもこの大会への参加の有無が話し合われたがJOCは出場を決定する(インドネシアとの関係悪化を危惧)。
しかし、大会後に日本や他国から無責任な参加として捉えられ、田畑はその責任を負い会長を辞任する。

以後、田畑は組織員会の委員として活動することになります。

66歳の田畑政治(1964年)

東京オリンピックの開催。

日本は開催国であったが、競泳で獲得したメダルは銅メダルの1個だけであった。

この大会の聖火リレーは田畑の考えのもと、ヤンゴン(ミャンマーの旧首都)、バンコク、クアラルンプール、マニラ、の香港(当時、英国統治下)、台北、そして返還前の沖縄を回って日本にやって来た。聖火台に火を灯す最終ランナーに選ばれたのは、広島に原爆が投下された1945年8月6日に生まれた当時19歳の坂井義則さんであった。平和を願っている日本の姿を世界に見てもらおうとしたと言われている