日本の教育者、新聞記者、水泳指導者、プロデューサー
日本水泳連盟会長を務めたほか、1964年東京オリンピックの招致活動に関わった。
「米国に阿って(おもねって)、原爆に対する憎しみを口にしえない者は、世界平和に背を向けるひきょう者だ。」
日本の教育者、新聞記者、水泳指導者、プロデューサー
日本水泳連盟会長を務めたほか、1964年東京オリンピックの招致活動に関わった。
「米国に阿って(おもねって)、原爆に対する憎しみを口にしえない者は、世界平和に背を向けるひきょう者だ。」
朝日新聞社に入社。
会社では政治部に配属され政治家とも交流を持つようになる。
※鳩山一郎(戦後に第52・53・54代総理大臣となる)にも目をかけられるようになる
一方、水泳の指導者として「大日本水上競技連盟(現・日本水泳連盟)」の創立に参画する。
ロサンゼルス五輪で水泳日本代表監督を務める。
日本は競泳で金5・銀5・銅2の成績を残す。
日本水上競技連盟を「日本水泳連盟」に改称し理事長に就任する。
メルボルン五輪に日本選手団団長を務める。
競泳は金1・銀4と不振に終わる。
日本水泳連盟名誉会長に就任する。
佐藤栄作総理大臣より銀杯一組を賜る。
東京五輪での不振を契機に田畑はより一層スポーツ振興に尽力する。
日本体育協会の副会長に就任。
8月25日に85歳で死去。