43歳の大隈重信(1881年)

太政官に統計院を設立し初代院長となる。

自由民権運動に同調し早期の憲法公布と国会の開設を説いた。
※憲法ではイギリス式の議院内閣制を支持し、ドイツ帝国憲法を支持する伊藤博文と対立する。

10月には伊藤ら薩長勢と対立し参議を罷免された(明治十四年政変)。

43歳の大久保利通(1873年)

征韓論論争で西郷隆盛や板垣退助と対立したため、西郷ら征韓派を失脚させる(明治六年政変)。

「富国強兵」をスローガンとし殖産興業政策を推進。
内務省の設置(自ら初代内務卿となる)、学制・地租改正・徴兵制の実施、官営工場の開設(富岡製糸場など)、屯田兵の派遣など

43歳のナポレオン(1812年)

ロシア遠征の開始。

ナポレオンによる大陸封鎖令はイギリスだけでなく欧州各国も経済的に困窮した。
そんな中、ロシア帝国が大陸封鎖令を破りイギリスと貿易を再開する。
ナポレオンはロシア遠征を決意し6月に進軍を開始する。

フランス軍はモスクワへ向かって進軍し、ボルジノの戦いなどでロシア軍に勝利し9月にはモスクワを占領。
しかし、ロシア軍がモスクワに火をつけたことで物資が燃え、フランス軍は物資の補給に失敗し撤退を決意する。
フランス軍撤退の知らせを聞いたロシア軍は、フランス軍を追撃し大打撃を与えた。
※国境まで帰還したフランス兵は全軍の1%(約5千人)

フランス軍の敗北を聞いた欧州各国は反フランスに転身し、プロイセンらが第六次対仏大同盟を結成する。

43歳のサン=テグジュペリ

4月6日、「星の王子さま」出版。6月、カナダのモントリオールにて「ある人質への手紙」出版。北アフリカ行きの軍用船に乗船。星の王子さまの初刷りを持って、ニューヨークから北アフリカの連隊へと向かう船の中で、サン=テグジュペリはこう語っていたと船員が伝えている。「戦争が終わったら、ソレームの修道院に入りたいとよく言っていた。そして話の終わりはいつも賛美歌になっていた」 偵察飛行大隊に復帰、サルディニア島アルゲーロ基地に配属される。少佐に昇進。7月、フランス上空への偵察任務につく。8月、エンジン故障で引き返し、操作ミスによる着陸事故。このため予備役に回される。

43歳のアルフレッド・ノーベル

結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。

しかしベルタには既に婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。(彼女は1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞)

同じく1876年、当時20歳の花売りゾフィー・ヘスと出会い、交流が始まる。ゾフィーとの関係は18年間続き、218通の手紙を残した。しかし1891年に、ゾフィーが他の男(ハンガリー人の騎兵隊の将校)の子供を宿していることが分かり2人の関係は急速に冷えた。

43歳のアインシュタイン

ノーベル賞受賞
受賞理由は「光電効果の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらす様な研究と言えるのかと言えば疑問」との声、更には「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルト或は、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。
この年には日本にもたちよっている。