73歳の吉田茂(1951年)

サンフランシスコ平和条約の締結。

この条約締結は吉田の政治生命をかけたものであった。

この条約により、日本と連合国の間にあった戦争状態を終結させ、日本はGHQの占領から独立する。

演説の最後は

「われわは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります。われわれは平和、正義、進歩、自由に挺身する国々の間に伍して、これらの目的のために全力をささげることを誓うものであります。われわれは今後日本のみならず、全人類が協調と進歩の恵沢を享受せんことを祈るものであります。」

という内容で締めくくる。演説内容の全文はコチラ

またサンフランシスコ講和会議には白洲次郎が全権団顧問として随行。吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更された。

また、アメリカとは日米安保条約(旧安保)を結び、日本国内に米軍の駐留を認めた。

73歳の犬養毅(1929年)

政界に復帰する。

犬養毅は政界を引退していたが、犬養を支持する支持者(とくに岡山県)が無理矢理に立候補させ衆議院選挙で当選させる。

犬養毅は当初は断っていたものの、結局は政界復帰を決断し、10月に立憲政友会の総裁となった。

73歳のパブロ・ピカソ

1954年から1963年にかけて、ピカソは、敬愛するドラクロア、ベラスケス、グレコ、マネなどの巨匠たちが描いた名作の場面設定や人物などを援用し、自分のイメージで“ピカソ・バージョン”と呼べるヴァリエーションを繰り返し描いてシリーズ化

《ラス・メニーナス(ベラスケスによる)》1957年

《ラス・メニーナス》1957年

《マネの草上の昼食より》1960年

73歳の水木しげる

世界妖怪協会を設立して会長となる。会員は、荒俣宏、京極夏彦、多田克己ら。翌年には境港市において、世界妖怪協会主催の「世界妖怪会議」が開催される。以降、毎年夏に行われるようになる。

「第6回東京平和の日平和展」の催しとして、「平和への祈り-水木しげる戦争体験絵画展」を開催。

73歳の司馬遼太郎

1996年「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院。
2日後の2月12日腹部大動脈瘤破裂のため死去した。
72歳没。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬遼太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列。