ガーター勲章の授与。
※イングランドの最高勲章
タグ: 53歳あの人は何をしていたか
53歳の陸奥宗光(1897年)
結核により亡くなる。
10年後には外務省に陸奥の像が造られた(現在のは再建されたもの)。
53歳の小村寿太郎(1908年)
第2次桂内閣で外務大臣に就任。
53歳の榎本武揚(1889年)
大日本帝国憲法の発布式で儀典掛長を務める。
また、文部大臣・森有礼が暗殺されると逓信大臣から文部大臣に就任する。
第1次山県内閣では文部大臣に留任する。
また、明治天皇より道徳教育の基準策定を命じられていたが、取り組まなかったため更迭される。
53歳のエイブラハム・リンカーン(1862年)
1862年2月16日、ドネルソン要塞の戦いで、北軍のグラント将軍が初の大勝利を得る。その後一進一退が続く
7月22日、奴隷解放宣言の最初の草案を閣議に提出
9月17日、アンティータムの戦いで、北軍が南軍リー将軍に勝利
9月22日、奴隷解放予備宣言を布告
53歳の山本五十六(1937年)
日中戦争の勃発。
五十六は、駐華イギリス大使のヒューゲッセンの日本軍機による誤爆事件や揚子江(長江)での海軍航空隊による米砲艦の誤爆事件の解決に尽力する。
53歳の孫正義(2010年)
2010年、企業内学校でソフトバンクグループを担う後継者発掘・育成を目的としたソフトバンクアカデミアを設立。
53歳のウォーレン・バフェット
家具屋のネブラスカ・ファーニチュア・マートを6000万ドルで買収した。バフェットはオーナーが同社の売却を考えていることを知り、オーナーの息子と事前に下交渉をしていた。その上でバフェットは店を訪ねてオーナーの老婦人と直接交渉し、会計の監査や在庫の調査をせずに言い値に対して即払いで購入。
バフェットはバークシャーの繊維部門の再建を断念して工場を閉鎖した。優秀な生え抜きの経営陣と資本を注ぎ込んだが、最後の9年間累計で売上が5億3000万ドル、1000万ドルの赤字であった。当時すでにアメリカにおいて斜陽産業であった繊維業を再建することはできなかった。
53歳の松下幸之助
制限会社指定を解除され、1947年に社長に復帰
53歳の田中角栄
第3次佐藤栄作内閣の改造で通商産業大臣。
53歳のオスカー・シンドラー
貿易商の仕事をしたのち、ドイツに帰国した。ドイツでは、セメント工場の仕事をし、これもまた1961年に倒産に追い込まれた。
から次に事業に失敗し、資金繰りで奔走しているシンドラーの噂は彼が救ったユダヤ人にも伝わる。彼らは、シンドラーをイスラエルに招待した。
この時点から、オスカー・シンドラーの「二重生活」が始まる。つまり、年の半分を彼が隠居生活をしているフランクフルトで過ごし、他の半分をエルサレム在住の、彼が救ったユダヤ人たちの下で過ごすということである。
53歳の伊藤博文
2度目の首相を務めていた時、日清戦争がおこる。翌年の明治28年(1895年)4月に、陸奥宗光と共に全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約(馬関条約)に調印する。また、戦争前に陸奥がイギリスと治外法権撤廃を明記した条約を結び、条約改正に大きく前進した。
53歳のアインシュタイン
アメリカへと渡り、プリンストン高等学術研究所の教授に就任。また、プロイセン科学アカデミーを辞任。なお、この年にはアインシュタインの別荘をナチスが強制的に家宅捜索している。その後、ナチスはアインシュタインを国家反逆者とした。