長崎に副島種臣とともに英学塾「致遠館」を設立する。
校長をオランダ人宣教師グイド・フルベッキとし、自らは副島とともに教頭格となった。
また、自らもフルベッキにより英語を学び、聖書やアメリカ独立宣言を勉強した。
この頃には尊皇派として活動を始める。
長崎に副島種臣とともに英学塾「致遠館」を設立する。
校長をオランダ人宣教師グイド・フルベッキとし、自らは副島とともに教頭格となった。
また、自らもフルベッキにより英語を学び、聖書やアメリカ独立宣言を勉強した。
この頃には尊皇派として活動を始める。
「利通」に改名する。
1865年2月3日、ハンプトン・ローズ会議(非公式な和平会議)がモンロー砦で開催。物別れに終わる
3月4日 2期目の大統領に就任
4月9日、南軍のリー将軍、アポマトックスで北軍のグラント将軍に降伏。南北戦争終結
4月14日、観劇中のワシントン市内フォード劇場において、南部連合の熱狂的支持者であった役者ジョン・ウィルクス・ブースに狙撃され、翌朝死去
リンカーンが発布した奴隷解放宣言は、大統領の戦時特権に基づいて大統領個人の責任においてなされたもので、法令に基づく一般的恒久的なものではなかった。立法措置は、1865年リンカーン死去後の合衆国憲法修正第13条の奴隷制廃止条項によってなされた
3月、長州藩内の保守派を武力で排斥し、藩の実権を握る。
海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、グラバーに説得され洋行を断念。
下関開港を推し進めたことにより、攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうのとともに四国へ逃れる。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。
10月坂本・桂らと回天の策を謀る。
一橋家歩兵取立御用掛を命ぜられ領内を巡歴。
藩の実権を握った桂の要請で行った薩摩藩や外国商人との武器購入及び交渉が主な仕事で、第二次長州征伐にも戊辰戦争にも加勢できずに暇を持て余していた。
長州征伐が始まる。幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。
1865年
薩摩藩の援助により、長崎で亀山社中、後の海援隊を結成。
中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。
長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。
この年に同郷の武市半平太、切腹。