27歳の大隈重信(1865年)

長崎に副島種臣とともに英学塾「致遠館」を設立する。

校長をオランダ人宣教師グイド・フルベッキとし、自らは副島とともに教頭格となった。
また、自らもフルベッキにより英語を学び、聖書やアメリカ独立宣言を勉強した。

この頃には尊皇派として活動を始める。

56歳のエイブラハム・リンカーン(1865年)

1865年2月3日、ハンプトン・ローズ会議(非公式な和平会議)がモンロー砦で開催。物別れに終わる
3月4日 2期目の大統領に就任
4月9日、南軍のリー将軍、アポマトックスで北軍のグラント将軍に降伏。南北戦争終結
4月14日、観劇中のワシントン市内フォード劇場において、南部連合の熱狂的支持者であった役者ジョン・ウィルクス・ブースに狙撃され、翌朝死去

リンカーンが発布した奴隷解放宣言は、大統領の戦時特権に基づいて大統領個人の責任においてなされたもので、法令に基づく一般的恒久的なものではなかった。立法措置は、1865年リンカーン死去後の合衆国憲法修正第13条の奴隷制廃止条項によってなされた

26歳の高杉晋作

3月、長州藩内の保守派を武力で排斥し、藩の実権を握る。

海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、グラバーに説得され洋行を断念。

下関開港を推し進めたことにより、攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうのとともに四国へ逃れる。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。

10月坂本・桂らと回天の策を謀る。

31歳の坂本龍馬

1865年

薩摩藩の援助により、長崎で亀山社中、後の海援隊を結成。

中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。

長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。

この年に同郷の武市半平太、切腹。