31歳の金栗四三(1922年)

1922年(大正11年)5月21日 『七大学駅伝競走』を福島県須賀川市で開催。この時、早稲田大学からは「河野一郎」「河野謙三」らが参加している。「河野一郎」は戦前戦後の政治家で、後の河野太郎外相の祖父。
大会前日の夜、金栗四三は「マラソンと体育」という題で講演を行い、「正しく練習する」ことの重要性と「女性の体育」の重要性を説き、満場の聴衆は感銘を受けたという。

『運動の基調となる体格の点についての根本問題として、私は婦人の運動を是非とも奨励したいと思っている』

31歳の陸奥宗光(1875年)

大阪会議が開かれる。
※大久保利通・木戸孝允・板垣退助らによって政治体制の改革が話し合われた
※立憲体制の樹立、三権分立、二院制議会の確立

この会議の結果、対立していた政府と民権派が互いに妥協たことで政治改革が行われ、陸奥は元老院の議官(議員)として政界に復帰する。
※陸奥は幹事に就任する

31歳の黒田官兵衛(1577年)

長男の松寿丸(後の黒田長政)を織田信長のもとへ人質として送る。
※松寿丸は秀吉の居城・長浜城で過ごす

主君の小寺政職ら播磨国の大名や領主らが毛利方に付こうとする中、黒田家は織田方に従う姿勢を見せ、織田家家臣の羽柴秀吉に姫路城を明け渡す。
また、官兵衛は秀吉の参謀として仕える。

31歳のフローレンス・ナイチンゲール(1851年)

社会的地位の低かった看護師になりたいというナインチンゲールは家族の反対を押し切って、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在し、3ヵ月間看護婦としての専門的訓練を積む。英国に戻った後も独学で病院管理や衛生学を学んだ。

31歳のスティーブ・ジョブズ

ルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1000万ドルで買収し、ピクサーと名付け、CEOの座に就いた。

ピクサーの主要商品は約10万本のセールスを記録し『ジュラシックパーク』のコンピュータグラフィックス制作でも使われた。

養母クララが亡くなり生母と再会、この時に妹・モナ・シンプソンの存在を知り初対面を果たす。

31歳のサン=テグジュペリ

親会社に内紛が起こり、アルゼンチンでの地位を失う。カサブンランカとポールテチェンヌ間等の郵便輸送に従事。「夜間飛行」がアンドレ・ジッドの序文を付けて出版され、フェミナ章を受賞。英訳され、映画化される。

31歳のアルフレッド・ノーベル

ニトログリセリン工場爆発。末弟エミールら5人が死亡。
この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。ニトログリセリンの安定性を高める研究に集中した。

同年、父が脳卒中で倒れる。

31歳の三浦知良

V川崎は親会社の撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、カズに対しても年俸ゼロ円提示がなされる。カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍。

ワールドカップ本大会のためスイスでの直前合宿に臨んだ。しかし、北澤豪、市川大祐と共に、本大会出場メンバーの選考から漏れ苦渋の帰国となった。カズは帰国会見で「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントした。

31歳のロバート・キャパ

1944年にはノルマンディー上陸作戦を取材。第1歩兵師団第16連隊第2大隊E中隊に従軍した。最大の戦死者を出したオマハ・ビーチにてドイツ軍と連合軍が入り乱れる中、100枚以上の写真を撮影した。

 

詳細はこちら

31歳のオスカー・シンドラー

没収前ユダヤ人の所有になっていた、落ちぶれた琺瑯(ホーロー)容器工場を買い取る。彼は、ユダヤ系ポーランド人会計士イツァーク・シュテルンの助言を受けながら、闇商売で資産を拡大していく。
クラクフ近くにあるザプロヴィツの小さな工場は、ドイツ軍の厨房用品を製造して急激な成長を遂げた。
工場はわずか3カ月で250人のポーランド人労働者を使うようになり、その中には7人のユダヤ人労働者もいた。

シンドラーは、快楽主義者で遊び人で、金を湯水のように使い、プレイボーイだったという。

31歳の桜井和寿

優しい歌
youthful days
リリース

TBSの開局50周年プロジェクトとして坂本龍一が呼びかけ、地雷撲滅を訴えかけるチャリティー企画ユニット・N.M.L.に参加。テーマ曲「ZERO LANDMINE」が発売され、CDの売り上げは地雷除去のために全額寄付

31歳の中村俊輔

2009年6月、スペイン1部リーグのRCDエスパニョールへの移籍が決定。翌2010年2月、かつての古巣、横浜F・マリノスに移籍し、日本へ帰国。

同年に南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップでは、グループリーグ第2戦の対オランダ戦で後半64分に途中出場するにとどまる。2010年7月1日に、このワールドカップを最後に日本代表を引退する意思を表明。

31歳のアドルフ・ヒトラー

潜入調査をするるもヒトラーはドイツ労働者党で党首アントン・ドレクスラーの反ユダヤ主義、反資本主義の演説に感銘を受けて逆に取り込まれてしまう。
、軍を除隊。党は国家社会主義ドイツ労働者党に改名される。
1921年党内抗争で初代党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、第一議長に就任

31歳の手塚治虫

1959年 週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)および『少年サンデー』(小学館)が創刊され、それ以後月刊の少年誌は次第に姿を消していくことになった。この時、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった。
同年、血の繋がらない親戚で幼馴染であった岡田悦子と宝塚ホテルにて結婚式を挙げる。多忙な手塚は結婚前に2回しかデートができず、しかも結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという

31歳のタモリ

芸能界入りする際、4つの戒律を自らに掲げたという[12]。
1、 誰の弟子にもならない
2、組織には属さない
3、頭をなるべくさげずにカネをもうける
4、色紙にサインをする時は、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない
当時の芸は、イグアナのような体芸、反知性を打ち出した中洲産業大学教授、デタラメ言語ハナモゲラなど、他の芸人とは一線を画しており、テレビ的にはキワモノ芸人的存在と考えられていた。
タモリの主なネタ

31歳のカール・マルクス

『新ライン新聞』を創刊し、各地で革命を煽動するも、いずれも鎮圧される。
また文無しとなる。
イギリスにうつり、極貧生活を送る。
貧困地区での生活は不衛生で、病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった。
借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという
それでもマルクスは毎日のように大英博物館図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強している。

31歳の伊藤博文

大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川 – 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した。

31歳の勝海舟

ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに海舟も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができた。
その後、長崎海軍伝習所に入門
第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。
この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。

31歳の坂本龍馬

1865年

薩摩藩の援助により、長崎で亀山社中、後の海援隊を結成。

中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。

長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。

この年に同郷の武市半平太、切腹。