31歳の勝海舟

ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに海舟も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができた。
その後、長崎海軍伝習所に入門
第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。
この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。