1917年(大正6年) 独協中学に移り、マラソンや駅伝の普及に一層力を尽くすようになった。
このころ、日本初の駅伝『奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競走』を企画実行した。
タグ: 26歳あの人は何をしていたか
26歳の吉田茂(1904年)
9月、学習院大学科の封鎖により無試験で東京帝国大学法科大学に入学
26歳のナポレオン(1795年)
師団陸将に昇進。
パリで王党派が蜂起する(ヴァンデミエールの反乱)。
この蜂起の際に、軍の司令官・バラスと以前からの知り合いだったことから副官に任命される。
ナポレオンは副官として活躍し師団陸将(中将)に昇進。
国外軍司令官ならびに国内軍司令官に任命され「ヴァンデミエール将軍」の異名をとる。
26歳のエイブラハム・リンカーン(1835年)
深刻なうつ病の発作「ブレイクダウン」に苦しめられる。
26歳の犬養毅(1882年)
大隈重信が党首を務めていた立憲改進党に入党。
大隈重信の参謀役として活躍するほか、大同団結運動に参加し軍閥や財閥を批判した。
※大同団結運動とは帝国議会を開設しようとする自由民権運動の一派
また、東京専門学校(後の早稲田大学)の第1回議員にも選出される。
26歳の西郷隆盛
斉彬の江戸参勤に際し江戸詰に任ぜられ江戸に赴く。御庭方役となり斉彬から直接教えを受けるようになる。
26歳の孫正義(1983年)
重度の慢性肝炎にかかり3年間入退院を繰り返すことになる。
26歳のウォーレン・バフェット
バフェットは故郷のオマハで105,000ドルを7人の家族と友人から集めて投資のパートナーシップであるバフェット・アソシエイツ株式会社を設立
26歳のパブロ・ピカソ
民族博物館で見たアフリカ黒人彫刻の象徴的で抽象的な表現に感銘を受けた。
『アビニヨンの娘たち』製作
アヴァンギャルド(前衛芸術)の旗手としてまだ誰も見たことのない絵を描こうと、並々ならぬ意欲を持って挑んだ大作
描かれた当初、その革新的な表現を誰も理解することができず、友人や画家仲間の間では「ピカソは気が狂った」とさえ言われました。
26歳のスティーブ・ジョブズ
Apple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータを目指すLisaプロジェクトのメンバーから外されたジョブズ。
誰にでも簡単に扱える、ノート代わりのコンピュータを目指すMacintoshプロジェクトへの参画をすることになった。
26歳の織田信長
桶狭間の戦いで今川義元を討つ。
今川軍の25000兵に対し、織田軍は2000~3000兵で勝利をおさめたといわれている。
26歳の徳川家康
甲斐国の武田信玄と同盟し、今川家を攻め遠江国の大部分を獲得。
26歳の水木しげる
武蔵野美術学校に入学を許可される(卒業はせず)。私生活では輪タク業や魚屋など職を転々とする。
26歳の杉原千畝
六百頁余にわたる『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。
26歳のサン=テグジュペリ
26歳で作家として「飛行家」の雑誌掲載でデビュー。
寡作ながら以後、自分の飛行士としての体験に基づいた作品を発表。著作は世界中で読まれ、有名パイロットの仲間入りをしたが、仲間のパイロットの間では反感も強かったという。後に敵となるドイツ空軍にも信奉者はおり、サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくないと語った兵士もいたという。
アエリエンヌ・フランセーズ社で遊覧飛行のパイロットとして臨時採用される。ラテコエール航空会社に操縦士として採用される。
26歳の高杉晋作
3月、長州藩内の保守派を武力で排斥し、藩の実権を握る。
海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、グラバーに説得され洋行を断念。
下関開港を推し進めたことにより、攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうのとともに四国へ逃れる。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。
10月坂本・桂らと回天の策を謀る。
26歳のアラン・チューリング
プリンストン高等研究所で博士号を得た。
博士論文では、「順序数」という概念の体系を整理しようとした。
その中で、チューリング還元の概念を提案している。純粋数学とは別に暗号理論もここで学び、電気機械式乗算器も試作。
イギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始める。ナチス・ドイツの暗号機、エニグマの解読に当たった。
26歳のアルフレッド・ノーベル
戦争終結と同時に事業は逼迫、父の会社は1859年に再び破産する。
スウェーデンに戻ったノーベルは爆発物の研究に没頭し、特にニトログリセリンの安全な製造方法と使用方法を研究した。
ノーベル本人がニトログリセリンのことを知ったのは1855年のことだが、この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。
1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。1863年にはスウェーデンで特許を得た。1865年には雷管を設計した。ストックホルムの鉄道工事で使用を認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。
26歳の吉田秀雄
入社二年目から、同期入社の日比野恒次、坂本英男ら有志を誘って、そも広告とは何か、を勉強することにした。先進国であるアメリカやイギリスの関連書籍を見つけ、週二回の輪講をもっていた。
26歳の三浦知良
FIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げエースとして活躍。中でも大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国を、ワールドカップ予選で初めて破ったという大きな意味をもつ。
しかし最終予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点にされ(「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。
1993年、日本人最高の20得点を記録しV川崎を初代チャンピオンに導き、Jリーグ初代MVPを受賞。
6試合連続得点を達成。これは日本人Jリーガーとしては現在も最多記録。
日本リーグとJリーグを跨いで年間最優秀選手に輝いた。1993年のアジア年間最優秀選手賞を受賞した。
この年にタレントの設楽りさ子と結婚。
26歳の田中角栄
長女眞紀子が誕生。
26歳の桜井和寿
名もなき詩、花 -Memento-Mori-をリリース
26歳の中村俊輔
2004年2月、横浜マリノス時代のチームメート奥大介(故)の元夫人、佐伯日菜子の紹介で知り合った元ペットショップ店員の女性と結婚。
26歳の手塚治虫
『火の鳥』の連載を開始、『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描き継がれた手塚のライフワークとなった。
雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行なってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった
26歳の正力松太郎
東京帝国大学卒業。内閣統計局に入る(同郷の南弘の推薦による)
26歳の森鴎外
1888年9月帰国、陸軍大学校教官の兼補を命じられた。帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 – 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった[18]。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる
26歳の渋沢栄一
徳川慶喜、征夷大将軍となり、 栄一は幕臣となる。
26歳の田臥勇太
NBAダラス・マーベリックスのサマーリーグに参加した。同年11月にNBAデベロップメントリーグのベーカーズフィールド・ジャムに3巡目11位指名を受けて入団した。ジャムの前身はABAのロングビーチ・ジャムであるため、2年ぶりの古巣復帰ともいえる。
26歳のカール・マルクス
『独仏年誌』創刊。人気を得られず廃刊せざるをえなくなった。共同編集長のルーゲとも絶縁。
しかし寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受けた。
これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。
「生産的労働を行って、人間の類的本質を達成することが人間の本来的あり方」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べ自身の立場を「共産主義」と定義するようになる。
10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『聖家族』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった。
この諸策の中では「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した新しい弁証法を確立せねばならない」と訴えた」
26歳の福澤諭吉
中津藩士、土岐太郎八の次女お錦と結婚