1857年、名主(なぬし)に選ばれる。
※江戸時代における名主は村役人の呼び名
タグ: 1857年あの人は何をしていたか
21歳の榎本武揚(1857年)
長崎海軍伝習所に入学。
※幕府が海軍士官養成のために設立した学校。
長崎海軍伝習所では、カッテンディーケ(オランダの海軍軍人)やポンペ(オランダの海軍軍医)のもとで機関学や化学を学ぶ。
27歳の大久保利通(1857年)
西郷隆盛と共に徒目付(かちめつけ)につき、精忠組としても活動する。
※徒目付とは城内の警備や役人の監察をする職
※精忠組とは西郷隆盛を盟主とした組織。
大老・井伊直弼を暗殺する計画を立てるが薩摩藩主によって抑制される
18歳の高杉晋作
吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。
10歳のトーマス・エジソン
地下実験室をもうけ、実験をはじめる。
後に、人間が空を飛べるようになる薬を作ろうと試み、ヘリウムガスをヒントにして薬を自作し、友人に飲ませた。エジソンの目論見としては、その薬を飲むと体内でガスが発生し、その浮力で人間が浮き上がるはずだったが、実際には薬を飲んだ友人が腹痛を起こしてもがき苦しみ、大騒ぎになった。普段はエジソンの行為に理解を示していた母親も、この件に関しては激怒し、人体実験を行う事を厳しく戒めたという。
16歳の伊藤博文
吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため、塾外で立ち聞きしていたという。
吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。
22歳の福澤諭吉
最年少で適塾の塾頭となる。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。
28歳の吉田松陰
1857年
松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。
下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。