トーマス・エジソンの名言・格言

トーマス・エジソン
1847年2月11日 – 1931年10月18日は、アメリカ合衆国の発明家、起業家。
生涯におよそ1,300もの発明を行った人々の生活を一変させるような重要な発明をいくつも行ったことで知られている。蓄音器、白熱電球、活動写真など。

また、電球などの家電だけでなく、発電から送電までを含む電力(電力システム)の事業化に成功したことが最も大きな功績、ともされる。

またエEdison General Electric Company エジソン・ゼネラル・エレクトリック会社の設立者で、J・Pモルガンから巨額の出資・援助をしてもらい、その指揮下で電力システムの開発・普及に努力したわけであるが、この会社は、現ゼネラル・エレクトリック社 (GE社) の前身となった会社である。

エジソンの名言・格言

I find out what the world needs. Then, I go ahead and invent it.
まず世界が必要としているものを見つけ出す。そして、先へ進み、それを発明するのだ。

I owe my success to the fact that I never had a clock in my workroom.
私が成功することができたのは、仕事場に時計がなかったおかげである。

I have not failed. I’ve just found 10,000 ways that won’t work.
私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。

The best thinking has been done in solitude. The worst has been done in turmoil.
最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は混乱のうちになされる。

Our greatest weakness lies in giving up. The most certain way to succeed is always to try just one more time.
私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ。

Show me a thoroughly satisfied man and I will show you a failure.
完全に満足しきった人がいたら、それは落伍者だ。

Everything comes to him who hustles while he waits.
待っている間もがんばる人にすべてのものはやってくる。

There are no rules here – we’re trying to accomplish something.
われわれが何かを成し遂げようとしているとき、ルールなどない。

We don’t know a millionth of one percent about anything.
われわれは何事についても1パーセントの100万分の一も知らない。

Genius is 1 percent inspiration and 99 percent perspiration.
天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。

幼少期のトーマス・エジソン

1847年2月11日アメリカのオハイオ州に生まれる。生まれる

少年時代のトーマスは、異常なほどの知りたがり屋であった。小学校に入学するも、教師と馬が合わずわずか3ヶ月で中退した。当時の逸話としては、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したり事あるごとに「Why? (なぜ?)」を連発して、先生を困らせていたという。

ガチョウの卵を自分で孵化させようとして、卵を抱き抱えてガチョウ小屋の中に何時間も座り込んだり、「なぜ物は燃えるのか」を知りたいと思い立ち、藁を燃やしていたところ、自宅の納屋を全焼させるなどの事件を起こしたこともあった。

最終的には担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも「他の生徒たちの迷惑になる」と言われ入学からわずか3ヶ月で退学。

学校と対立する息子を認め、育てたのは母親。
エジソンの個性を理解し、自ら家で勉強を教えたという

10歳のトーマス・エジソン

地下実験室をもうけ、実験をはじめる。
後に、人間が空を飛べるようになる薬を作ろうと試み、ヘリウムガスをヒントにして薬を自作し、友人に飲ませた。エジソンの目論見としては、その薬を飲むと体内でガスが発生し、その浮力で人間が浮き上がるはずだったが、実際には薬を飲んだ友人が腹痛を起こしてもがき苦しみ、大騒ぎになった。普段はエジソンの行為に理解を示していた母親も、この件に関しては激怒し、人体実験を行う事を厳しく戒めたという。

15歳のトーマス・エジソン

15歳の時に、働いていた鉄道の駅で、まだ幼い駅長の息子が汽車にひかれそうになったのを助けた事があった。エジソンはそのお礼として、駅長から電信の技術を教えてもらい、後に彼が技術者としての人生を歩み始めるきっかけを与えてもらったという。

17歳のトーマス・エジソン

カナダの駅で夜間電信係として働いていたが、「何事もなければ、一晩中1時間おきに勤務に就いていることを示す信号を送るだけ」という退屈な仕事に飽きてしまい、時計を使って電信機が自動で電信を送る機械を発明した。電信を機械に任せて自分は寝ていたところ、それまでと違って全く誤差なく正確に1時間おきに電信が届くようになった事を不思議に思い様子を見に来た上司に「お前が寝ていたら定時に連絡する意味がないだろう」と怒られた。これがエジソンの最初の発明

21歳のトーマス・エジソン

初めて特許を取得。それは電気投票記録機に関するもので、議会における賛成票と反対票の数を押しボタンで瞬時に集計し、投票にかかる時間を大幅に短縮できる画期的な発明となる筈だった。だが、実際には「少数派の議員による牛歩戦術ができなくなる」という理由で全く採用されなかった。エジソンはこの苦い経験を通して、いくら立派な発明でも人々が喜んでくれなければ何の意味もない事を痛感し、その後は周囲の人々の意見や要望をよく聞いてから発明に取り組むようになったという。

22歳のトーマス・エジソン

特許を取得した株式相場表示機は業界から大いに歓迎され、その特許権を譲ってもらいたいという申し出があった。最初、エジソン自身は5000ドルほどで特許権を売るつもりであったが、実際には4万ドル(現在の日本円だと約2億円相当)で買い取られた

46歳のトーマス・エジソン

アメリカ初の映画スタジオ「ブラック・マリア(Edison’s Black Maria)」を設立し、ウィリアム・ディックソン、ウィリアム・ハイセを監督に、キネトスコープ用の白黒フィルムを制作。
1901年にはマンハッタンに、1907年にはブロンクスに新しい映画スタジオを開き、約1200本のフィルムを制作した[。

49歳のトーマス・エジソン

自動車王のヘンリー・フォードと出会う。
当時はフォードはエジソン電灯会社の社員であった。フォードが発明したばかりのガソリン自動車の説明をすると、エジソンはテーブルを拳で叩いて喜び、フォードを励ました

84歳のトーマス・エジソン

鉱山経営などにも手を出すが失敗。高齢となって会社経営からは身を引くが、研究所に篭り死者との交信の実験(霊界との通信機の研究)を続ける。1914年12月に研究所が火事で全焼し約200万ドルの損害を蒙ったが、臆せずその後も死者との交信についての研究を続けた。
10月18日、84歳でその生涯を終えた。