22歳の新渡戸稲造(1884年)

アメリカへ留学する。

「太平洋の架け橋になりたい」と思っていた稲造は、私費でアメリカへ行きジョンズ・ホプキンズ大学に入学する。

アメリカ留学中にはキリスト教プロテスタントの一派であるクエーカー派の会員となるほか、女性の地位向上に取り組んでいたメアリー・エルキントンと結婚する。

山本五十六の名言・格言

明治時代から昭和時代に活躍した日本の軍人(海軍)。第26・27代連合艦隊司令長官。

「内乱では国は滅びない。戦争で国が滅びる。」

「人は神ではない。誤りをするというところに、人間味がある。」

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」

「どんなことでも部下の失敗の責任は長官にある。下手なところがあったらもう一度使う。そうすれば必ず立派に成し遂げるであろう。」

「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」

「山本五十六」の画像検索結果

幼少期の山本五十六

4月4日に新潟県古志郡長岡本町(現在の長岡市)で生まれる(五十六は6男)。

父は旧越後長岡藩士の高野貞吉。
※生まれは山本家ではなく高野家

「五十六」という名は父が56歳の時の子であったため。

幼少の頃から、アメリカ人宣教師のところで聖書を学ぶ。

22歳の森鴎外

衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。4年留学した鷗外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。
最初の1年を過ごしたライプツィヒで、生活に慣れていない鷗外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人達であった。
また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつきあい、ライプツィヒ大学ではホフマンなど良き師と同僚に恵まれた。演習を観るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロの「システィーナの聖母」を鑑賞した。

64歳の清水次郎長

「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕される。懲役4年を言い渡されるが、山岡鉄舟や養子とした天田愚庵らの尽力で翌年には釈放される。

天田愚庵が次郎長を釈放するために、世間にその功績を認めさせようと「東海遊侠伝・一名次郎長物語」を出版したのもこの年である。