41歳のクリストファー・コロンブス(1492年)

1492年4月 イザベル一世が諮問委員会の否定的見解を無視して航海計画案を承認し、『サンタ・フェ協定』をコロンブスと締結。

『サンタ・フェ協定』により、コロンブスは、インディアス提督・副王ならびに総督に任じられ、裁判権ならびにインディアスでの戦利品や利益の10分の1の権利を保証された。

41歳のクリストファー・コロンブス(1492年)

1492年8月3日 スペインのパロス港から、第1回航海に出発。(乗員90名)
同年10月12日 現在のバハマ諸島のワットリング島(異説もある)を発見。『新大陸の発見』 その後、キューバ島・ハイチ島(サント・ドミンゴ島)を探検し、ハイチ島に基地を設け、翌年3月15日帰国した。

41歳の金栗四三(1932年)

日本が1940年の東京オリンピック開催に正式立候補。四三は恩師嘉納治五郎からの要請を受けて上京。十文字高等女学校に所属し、オリンピック招致活動に協力するようになる。

41歳の明治天皇(1894年)

列強との同盟と外国との戦争。

外務大臣・陸奥宗光のもとイギリスと日英通商航海条約(1894)を結ぶ。
※この条約は日本初の不平等条約が改正された条約
また、8年後にはイギリスと日英同盟(1902)を結ぶ。

一方、朝鮮半島を巡って清・ロシアと戦争をする。
これらの戦争中は、明治天皇は大本営(日本軍の最高統帥機関)で直接戦争指導をしている。

明治天皇個人としては両戦争に反対していたという

41歳のエイブラハム・リンカーン(1850年)

1850年2月1日 次男エデイが3歳で死去、

このころ「巡回裁判」のため、イリノイ州中を出張。スプリングフィールドに居たのはわずか100日という。

この時期のリンカーンの人生の主要な特徴は「政治家と弁護士の二足の草鞋で重労働をこなした」ことだとされる。

41歳のサン=テグジュペリ

1月、フランスの親独ヴィシー政権からメンバーに指名され、怒りの記者会見を開く。以降、アンドレ・ブルトンによる悪意の噂も手伝って、ヴィシー政府の回し者呼ばわりされる。滞在中、英語は一切話さなかったという。

「城砦」を中断して「戦う操縦士」の執筆にかかる。ジャン・ルノワールの誘いでハリウッドに移る。8月、腹痛のため手術。コンスエロがニューヨークへ来る。12月、日本の真珠湾攻撃により、アメリカ参戦。サン=テグジュペリは涙を流して喜んだという。

41歳のロバート・キャパ

1954年4月に日本の写真雑誌『カメラ毎日』の創刊記念で来日、市井の人々を取材した。程なく東京で『ライフ』から第一次インドシナ戦争の取材依頼を受け、北ベトナムに渡る。

 

5月25日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビン省のドアイタンにあるフランス軍陣地に向かう。午後2時30分ころドアイタンに到着。2名の後輩カメラマンと共にフランス軍の示威作戦へ同行取材中の午後2時55分、ドアイタンから約1キロの地点にある小川の堤防に上った際に地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。

41歳の清水次郎長

1860年、子分の石松が、久六とも縁がある都田吉兵衛たちに殺害される。

都田吉兵衛は50両での手打ちを持ちかけたが、次郎長は受け入れない。

下田金平・吉兵衛らが沼津から清水港へ上陸し、次郎長を急襲するも次郎長は不在。

1861年、駿河国江尻追分において石松の敵である都田吉兵衛を殺害する。

41歳の伊藤博文

1882年、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられる。プロイセン憲法の逐条的講義や歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。