41歳のサン=テグジュペリ

1月、フランスの親独ヴィシー政権からメンバーに指名され、怒りの記者会見を開く。以降、アンドレ・ブルトンによる悪意の噂も手伝って、ヴィシー政府の回し者呼ばわりされる。滞在中、英語は一切話さなかったという。

「城砦」を中断して「戦う操縦士」の執筆にかかる。ジャン・ルノワールの誘いでハリウッドに移る。8月、腹痛のため手術。コンスエロがニューヨークへ来る。12月、日本の真珠湾攻撃により、アメリカ参戦。サン=テグジュペリは涙を流して喜んだという。

41歳のロバート・キャパ

1954年4月に日本の写真雑誌『カメラ毎日』の創刊記念で来日、市井の人々を取材した。程なく東京で『ライフ』から第一次インドシナ戦争の取材依頼を受け、北ベトナムに渡る。

 

5月25日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビン省のドアイタンにあるフランス軍陣地に向かう。午後2時30分ころドアイタンに到着。2名の後輩カメラマンと共にフランス軍の示威作戦へ同行取材中の午後2時55分、ドアイタンから約1キロの地点にある小川の堤防に上った際に地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。

41歳の清水次郎長

1860年、子分の石松が、久六とも縁がある都田吉兵衛たちに殺害される。

都田吉兵衛は50両での手打ちを持ちかけたが、次郎長は受け入れない。

下田金平・吉兵衛らが沼津から清水港へ上陸し、次郎長を急襲するも次郎長は不在。

1861年、駿河国江尻追分において石松の敵である都田吉兵衛を殺害する。

41歳の伊藤博文

1882年、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられる。プロイセン憲法の逐条的講義や歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。