エイブラハム・リンカーンの名言・格言

エイブラハム・リンカーン (Lincoln,Abraham)

アメリカ合衆国の第16代大統領。
南北戦争を終結させ、奴隷解放宣言を発布して「奴隷解放の父」と呼ばれた。
アメリカが生んだもっとも偉大な政治家であり、卓越した文学的才能の持ち主であり、広い世界観と深い道徳性を兼ね備えた人物。

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リンカーンの残した名言
Those who deny freedom to others deserve it not for themselves.
「他人の自由を否定する者は、自らも自由になるに値しない」

I am not concerned that you have fallen – I am concerned that you arise.
「あなたが転んでしまったことを心配しているのではない。そこからどう立ち上がるかが心配なのだ」

I walk slowly, but I never walk backward.
「私の歩みは遅い、しかし歩んだ道を後戻りすることはない」

It’s not the years in your life that count. It’s the life in your years.
「何歳まで生きたかは重要ではない。いかにして生きたかが重要だ」

I will prepare and someday my chance will come.
「準備しておこう。チャンスはいずれ来る」

That some achieve great success, is proof to all that others can achieve it as well. 「誰かが成功を収めることができたということは、他の人にも同じ事ができるということの証明である」

25歳のエイブラハム・リンカーン(1834年)

1834年8月、イリノイ州議会議員選挙にホイッグ党から再び立候補し、最多票を得て当選。
その後3回再選され、8年間務める。

このころから、州議会議員の仕事と並行して、弁護士となるべく独学で法律の勉強を本格的に進める

28歳のエイブラハム・リンカーン(1837年)

1837年スプリングフィールドで、州内で指折りの法律事務所「ジョン・トッド・スチュアート」に入所。弁護士活動も始める。
当時、すでに政治家としては州のホイッグ党を率いる神童的指導者として評判を得ていた

同僚たちのリンカーン評
「彼は悲しげな顔つきをした男で、陰気で、メランコリックだった」(ウィリアム・ハーンドン)
「持って生まれたメランコリーで、意気消沈の発作に陥りやすかった」(O・H・ブラウニング)
「メランコリーが常態で、時にそれが際立ち、時に極めて穏やかになったが、消え去ることはなく、一抹の悲哀感が残った。それを消し去るのが笑顔で、これは頻繁に見られた」(ジェイムズ・リーメン二世)

以降4年間、ジョシュア・スピードという青年と同居していた。

41歳のエイブラハム・リンカーン(1850年)

1850年2月1日 次男エデイが3歳で死去、

このころ「巡回裁判」のため、イリノイ州中を出張。スプリングフィールドに居たのはわずか100日という。

この時期のリンカーンの人生の主要な特徴は「政治家と弁護士の二足の草鞋で重労働をこなした」ことだとされる。

45歳のエイブラハム・リンカーン(1854年)

1854年1月23日、後にリンカーンの好敵手となるダグラス上院議員が、「カンザス・ネブラスカ準州法案」を連邦議会に提出。
5月30日、大差で同法が成立(北緯36度30分以北の準州に奴隷制を住民主権に委ねる法律が施行されることになった)
7月6日、奴隷制への対処を念頭に「共和党」がミシガン州ジャクソンで結成される。
10月16日、「ペオリアの演説」で、奴隷制の拡大に反対する演説を行う。

49歳のエイブラハム・リンカーン(1858年)

1858年6月16日、イリノイ州の共和党大会で連邦上院議員の共和党候補者として選出。その際、「分かれたる家は立つこと能わず」と演説。北部の有力政治家として初めて連邦の南北分裂に言及した

中間選挙において、奴隷制維持論者の民主党ダグラスと選挙戦を戦うことになる。全米の注目を集める。8月から10月まで計7回の立会演説会を実施。奴隷制を徹底的に批判し、その拡大に歯止めをかけるべきと主張した。選挙結果は当選しなかったものの、共和党の有力政治家として全国的に知られる存在となった

51歳のエイブラハム・リンカーン(1860年)

1860年2月27日、ニューヨークのクーパー・インスティテュートで「南部の現存する奴隷制度について、穏健な態度と方法で奴隷制の拡大を毅然として阻止すべきだ」と演説。演説内容は新聞に全文掲載され、東部における名声を不動のものとした。
5月16日の共和党全国大会において合衆国大統領候補に指名される。
11月6日、大統領選挙が実施され、民主党ダグラス候補に大差をつけて当選を果たす
12月20日、サウスカロライナ州が連邦から離脱し、翌年にかけて計13州が連邦を脱退

52歳のエイブラハム・リンカーン(1861年)

1861年2月4日、南部諸州が「アメリカ連合国(通称「南部連合」)を結成
3月4日、第16代大統領に就任。
4月12日、南部連合軍の攻撃により、南北戦争始まる
7月21日、第一次ブルランの戦いで、北軍は壊滅的な敗北を喫する。以降、南軍優勢で戦局が推移する

53歳のエイブラハム・リンカーン(1862年)

1862年2月16日、ドネルソン要塞の戦いで、北軍のグラント将軍が初の大勝利を得る。その後一進一退が続く
7月22日、奴隷解放宣言の最初の草案を閣議に提出
9月17日、アンティータムの戦いで、北軍が南軍リー将軍に勝利
9月22日、奴隷解放予備宣言を布告

54歳のエイブラハム・リンカーン(1863年)

1863年1月1日、奴隷解放宣言を発布。
7月1日、ゲティスバーグの戦い始まる(7月4日に南軍リー将軍が退却、北軍の勝利となった) ※南北戦争最大の激戦で、両軍の戦死傷者は5万人以上に上った
11月19日、ゲティスバーグに国立墓地を作る式典において、戦没将兵にささげる演説を行い、アメリカの新しい自由の誕生と民主政治の根本を簡潔に格調高く表現した不朽の名演説として語り継がれている
12月8日、南部反乱州に対する「大赦と再建の宣言」を布告

 

「ゲティスバーグの演説」

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It is for us the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us – that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion – that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain – that this nation, under God, shall have a new birth of freedom – and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.

「ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きているわれわれなのである。われわれの目の前に残された偉大な事業にここで身をささげるべきは、むしろわれわれ自身なのである。―それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を尽くして身命をささげた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれが一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである。(米国大使館訳)」

55歳のエイブラハム・リンカーン(1864年)

1864年3月9日、ユリシーズ・S・グラント将軍を連邦軍総司令官に任命。これにより3年に及ぶ内戦を決定的勝利の方向に導くことができた
9月2日、北軍、南部の中心地アトランタを占領し、北軍の勝利はもはや動かしがたいものに。
11月8日、大統領選挙の結果、圧倒的多数の支持を受けて再選

56歳のエイブラハム・リンカーン(1865年)

1865年2月3日、ハンプトン・ローズ会議(非公式な和平会議)がモンロー砦で開催。物別れに終わる
3月4日 2期目の大統領に就任
4月9日、南軍のリー将軍、アポマトックスで北軍のグラント将軍に降伏。南北戦争終結
4月14日、観劇中のワシントン市内フォード劇場において、南部連合の熱狂的支持者であった役者ジョン・ウィルクス・ブースに狙撃され、翌朝死去

リンカーンが発布した奴隷解放宣言は、大統領の戦時特権に基づいて大統領個人の責任においてなされたもので、法令に基づく一般的恒久的なものではなかった。立法措置は、1865年リンカーン死去後の合衆国憲法修正第13条の奴隷制廃止条項によってなされた