1920年(大正9年)2月14日 第1回の『東京箱根間往復大学駅伝競走』を企画実行した。
現在の『箱根駅伝』であるが、最優秀選手に贈られる「金栗四三杯」にその名を残している。
同年 第7回オリンピック(アントワープ)に、日本代表選手として参加。マラソン競技に出場し16位で完走。
タグ: 29歳あの人は何をしていたか
29歳の陸奥宗光(1873年)
前年に妻の蓮子な亡くなったため、後妻として亮子と結婚する。
※亮子は日本赤十字社の社員にもなる
※宗光が投獄された際には、子育てをしながら投獄中の夫を支える
29歳の明治天皇(1882年)
陸軍・海軍を「天皇の軍隊」と規定。
また、軍人に対して、5つの基本道徳や政治に関わらないようにする「軍人勅諭」を発する。
29歳の田中正造(1870年)
江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の役人となる。
解放後、東京へ出てきた正造だったがゆく宛てが無かったところを、正造と同じ下野国出身の早川新斎の薦めで江刺県の役人となった。
29歳の新渡戸稲造(1891年)
札幌農学校の教授となる。
教授時代には稲造の最初の著書『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版される。
29歳の小村寿太郎(1884年)
英語と法律が出来ることを買われ外務省に入る。
29歳の大隈重信(1867年)
副島とともに脱藩し京都へ向かう。
徳川慶喜に大政奉還を進言しようとするが、途中で捕縛され佐賀藩へ送還、謹慎処分となる。
29歳のナポレオン(1798年)
イギリスとの戦い。
オーストリアとの戦いでの功績によって、ナポレオンは今度はエジプト(オスマン帝国の支配下)に進軍する。
エジプトは当時イギリスとインドの交易中継地点であったことから、イギリスを抑えるためにはエジプトを支配下に置く必要性があった。
ナポレオンは軍を率いてカイロを落とす。
しかし、エジプトのアレクサンドリア沿岸でフランス艦隊はイギリス艦隊に敗れる(ナイルの海戦)。
翌年にナポレオンはフランスへ帰還するも、イギリスの主導で第二次対仏大同盟が結成された。
29歳の山本五十六(1913年)
両親が亡くなる。
海軍大学校に入学(1916年に卒業)。
29歳の黒田官兵衛(1575年)
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の取り次ぎにより、岐阜城で織田信長に謁見する。
29歳のウォーレン・バフェット
1959年、後にバークシャーの副会長となるチャーリー・マンガーに出会い、意気投。
29歳のパブロ・ピカソ
《ヴォラールの肖像》
《カーン・ワイラーの肖像》
29歳のスティーブ・ジョブズ
「Macintosh」を発売。
ジョブズはMacintoshの需要予測を大幅に誤り、アップルは過剰在庫に悩まされ、初めての赤字を計上してしまった。アップルは、従業員の1/5にあたる人数のレイオフ(人員削減)を余儀なくされた。
29歳の織田信長
美濃国攻略のために、清洲城から小牧山城に居城を移す
29歳の水木しげる
大家業の傍ら、副業として下宿人の紹介で紙芝居制作を始める。
水木と同じ変わり者ばかりが入居してきたため、家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が中々軌道に乗らず副業を探していた所、紙芝居作家の弟子をしているという青年がアパートに入居した。
一度は諦めた絵に対する熱意もあって、その青年から紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士の鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが紙芝居業は非常に薄給で、ましてや実績のない無名の新人作家にはまともな代金は支払われなかった。
29歳のサン=テグジュペリ
「南方郵便機」出版。アルゼンチンの郵便飛行会社の支配人となる。ブエノスアイレスとプンタアレナス間の郵便路線を開く。
29歳のアラン・チューリング
同僚で数学者・暗号解読者のジョーン・クラークに結婚を申し込んだが、婚約期間は短かった。同性愛者であることをフィアンセに告白しても、彼女は動じなかったといわれているが、チューリングのほうがこのまま結婚はできないと別れることを決心した
29歳の松下幸之助
電池式自転車ランプを考案発売
29歳の三浦知良
1996年Jリーグ得点王になるなど活躍し第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会制覇。
29歳の田中角栄
日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位で当選。
9月に長男正法4歳で死亡
11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。
29歳の桜井和寿
1999年のリリース
「光の射す方へ」
29歳の中村俊輔
2006年6月、ドイツW杯に選出。当時の代表監督ジーコに中心選手として重要視され、グループリーグ全3試合にフル出場するも、2敗1分で敗退。第1戦のオーストラリア戦で自身のW杯での唯一の得点を獲得。
同年9月には2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに初出場。オールドトラフォードで開催されたグループリーグ第1戦、マンチェスター・ユナイテッド戦にて、今でも語り継がれる伝説のフリーキックによる得点をあげる。
続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でもフリーキックを決め、決勝トーナメント進出に貢献。これはセルティックにとって現行のCLとなってから初、日本人選手としても初めての快挙を果たす。
2007年4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、実質日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となる。2006-07シーズンはリーグトップの12アシストを挙げ、スコットランドPFA年間最優秀選手賞、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞、年間ベストゴール賞も獲得。
29歳のアドルフ・ヒトラー
マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監、入院中に第一次世界大戦が終結する。ヒトラーは第一次世界大戦がドイツの降伏で終結した時に激しい動揺を見せた兵士の一人であったという。
29歳の高柳健次郎
人物の送像のテレビ実験に成功するまでに至った (走査線数は40本、毎秒送像数14枚)
29歳の森鴎外
坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。
29歳の渋沢栄一
明治政府に仕え、民部省租税正と なる。
29歳の土方歳三
仲間とともに、将軍・徳川家茂警護の為の浪士組に応募し、京都へ赴く。
29歳の土方歳三
八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新選組が発足。
その後、新見錦が切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。権力を握った近藤が局長となった。歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持にあたった。新選組は副長助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされる。
29歳の伊藤博文
工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。後にこれは、内務卿・大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米し、ナショナル・バンクについて学び、帰国後に伊藤の建議により、日本最初の貨幣法である新貨条例が制定される。
29歳の福澤諭吉
幕府直参の御旗本となる
29歳のアインシュタイン
有名な式E=mc²を発表している。この年には、箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができないという、後の一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を考案する。アインシュタインはこれを、生涯最良の名案であると述べている。