田中正造
江戸時代から大正時代に活躍した日本の政治家。
地域の公害問題解決のために戦い続けた。
「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を荒らさず、人を殺さざるべし。」
「何事もあきれて物を言わぬとも、言わねばならぬ今のありさま。」
「憎まれれば憎まれるほど、人として自信が湧いてくる。」
「何事もすべてを打ち込んで事にあたれば、苦労もかえって喜びになる。」
田中正造
江戸時代から大正時代に活躍した日本の政治家。
地域の公害問題解決のために戦い続けた。
「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を荒らさず、人を殺さざるべし。」
「何事もあきれて物を言わぬとも、言わねばならぬ今のありさま。」
「憎まれれば憎まれるほど、人として自信が湧いてくる。」
「何事もすべてを打ち込んで事にあたれば、苦労もかえって喜びになる。」
12月15日に下野国安蘇郡吾妻郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)で父・富蔵、母・サキの長男として生まれる。幼名は兼三郎。
生まれた家は名主(なぬし、領主のもとで村政を担当した村の首長)であったが、それほど裕福ではなかった。
教育熱心な父の影響で、赤西小四郎のもとで儒学を学ぶ。
1857年、名主(なぬし)に選ばれる。
※江戸時代における名主は村役人の呼び名
投獄される。
以前から、領主であった六角家との間で金銭に関するトラブルを抱えており、正造は村民らとともに抗議していた。
しかし、六角家は高家という幕府では格式の高い役職についていたことから、明治維新の直前に捕まり投獄される。
※縦横1mほどの牢に10ヶ月投獄される
江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の役人となる。
解放後、東京へ出てきた正造だったがゆく宛てが無かったところを、正造と同じ下野国出身の早川新斎の薦めで江刺県の役人となった。
再び投獄される。
江刺県の役人となった正造であったが、上司・木村新八郎の暗殺事件が起こると正造が犯人にでっち上げられる。
この時、正造は医者が来るまでに木村の応急措置をしていたが、正造の服に血が付いていたことや日頃から上司や他の役人らと言い争いをしていたことから疑われた。
※約3年の投獄後に木村新八郎の息子が無罪を証言したことで釈放される
獄中では厳しい取り調べがあったものの、書物を読んで西洋の政治などを学んだ。
栃木県の区会議員となる。
2度の投獄に耐えた正造は、地元・栃木県第4大区3小区の区会議員に選ばれる。
正造は自由民権運動の第一歩として地元の自治問題を改革しようとした。
栃木県議会議員となる。
県議会議員として地方自治に力を入れ、県令(現在の知事)・三島通庸と争う。
5年後には三島の暗殺事件(加波山事件)への関与が疑われ逮捕される。
※加波山事件は自由民権運動の1つ
逮捕されもたものの三島が異動になったことで釈放、1886年には第13回臨時県会で議長となる。
衆議院議員になる。
第1回衆議院議員総選挙に立憲改進党として地元栃木県3区で立候補し当選する。
この年には渡良瀬川の大洪水で稲が枯れる、いわゆる足尾銅山鉱毒事件が起こる。
第2回帝国議会の開催。
正造は鉱毒問題に関して質問を行うが、農商務大臣・陸奥宗光から「質問の趣旨が分からない」と返答される。
足尾銅山鉱毒事件に対して東京で演説を行う。
また、農商務省と足尾銅山側に予防工事を約束させる。
川俣事件の発生。
足尾銅山鉱毒事件の被害者が東京へ陳情(実情を調べ対処してくれと願うこと)しに行こうとした時に、地元の警官隊と衝突した事件。
この事件後に正造は国会で川俣事件に対しての質問をしたが、当時の総理大臣・山県有朋に「質問の意味が分からない」と返される。
川俣事件で逮捕された者は後に全員釈放される。
明治天皇への直訴。
正造は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は継続し演説を行い続けた。
また、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に鉱毒事件についての直訴したが失敗する。
この時、正造は死を覚悟したと言われているが釈放された。
1903〜1908年にかけて、谷中村の貯水池ならびに藤岡町への合併案に対し抗議し続ける。
谷中村議会は藤岡町への合併を否決するも政府の圧力によって村民は村を出た。正造は村の廃止当日まで村に住み続けた。
足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)で死去。
死因は胃がん。