田中正造の名言・格言

田中正造

江戸時代から大正時代に活躍した日本の政治家。
地域の公害問題解決のために戦い続けた。

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「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を荒らさず、人を殺さざるべし。」

「何事もあきれて物を言わぬとも、言わねばならぬ今のありさま。」

「憎まれれば憎まれるほど、人として自信が湧いてくる。」

「何事もすべてを打ち込んで事にあたれば、苦労もかえって喜びになる。」

幼少期の田中正造

12月15日に下野国安蘇郡吾妻郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)で父・富蔵、母・サキの長男として生まれる。幼名は兼三郎。

生まれた家は名主(なぬし、領主のもとで村政を担当した村の首長)であったが、それほど裕福ではなかった。

教育熱心な父の影響で、赤西小四郎のもとで儒学を学ぶ。

27歳の田中正造(1868年)

投獄される。

以前から、領主であった六角家との間で金銭に関するトラブルを抱えており、正造は村民らとともに抗議していた。
しかし、六角家は高家という幕府では格式の高い役職についていたことから、明治維新の直前に捕まり投獄される。
※縦横1mほどの牢に10ヶ月投獄される

30歳の田中正造(1871年)

再び投獄される。

江刺県の役人となった正造であったが、上司・木村新八郎の暗殺事件が起こると正造が犯人にでっち上げられる。
この時、正造は医者が来るまでに木村の応急措置をしていたが、正造の服に血が付いていたことや日頃から上司や他の役人らと言い争いをしていたことから疑われた。
※約3年の投獄後に木村新八郎の息子が無罪を証言したことで釈放される

獄中では厳しい取り調べがあったものの、書物を読んで西洋の政治などを学んだ。

39歳の田中正造(1880年)

栃木県議会議員となる。

県議会議員として地方自治に力を入れ、県令(現在の知事)・三島通庸と争う。
5年後には三島の暗殺事件(加波山事件)への関与が疑われ逮捕される。
※加波山事件は自由民権運動の1つ
逮捕されもたものの三島が異動になったことで釈放、1886年には第13回臨時県会で議長となる。

59歳の田中正造(1900年)

川俣事件の発生。

足尾銅山鉱毒事件の被害者が東京へ陳情(実情を調べ対処してくれと願うこと)しに行こうとした時に、地元の警官隊と衝突した事件。

この事件後に正造は国会で川俣事件に対しての質問をしたが、当時の総理大臣・山県有朋に「質問の意味が分からない」と返される。

川俣事件で逮捕された者は後に全員釈放される。

60歳の田中正造(1901年)

明治天皇への直訴。

正造は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は継続し演説を行い続けた。

また、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に鉱毒事件についての直訴したが失敗する。
この時、正造は死を覚悟したと言われているが釈放された。