59歳の田中正造(1900年)

川俣事件の発生。

足尾銅山鉱毒事件の被害者が東京へ陳情(実情を調べ対処してくれと願うこと)しに行こうとした時に、地元の警官隊と衝突した事件。

この事件後に正造は国会で川俣事件に対しての質問をしたが、当時の総理大臣・山県有朋に「質問の意味が分からない」と返される。

川俣事件で逮捕された者は後に全員釈放される。

35歳の津田梅子(1900年)

女子英学塾の開校。
※後の津田塾大学

アメリカから帰ってきた津田梅子は明治女学院や女子高等師範学校に勤めるほか、女性が学校へいけるように支援する。

そして女子英学塾を開校すると、行儀作法の女子教育(花嫁修業など)ではなく自由な授業を行った。
また、資金援助が少なかったことから経営は苦しかったものの社会法人とした。

45歳の小村寿太郎(1900年)

清国で起こった義和団事件の際には、講和会議全権として事後処理にあたる。

※義和団事件(庚子事変)とは日清戦争後に生活に苦しんでいた農民らが排外主義を掲げ、外国人や教会を襲った事件。北京の列国大公使館を包囲した。

59歳の伊藤博文

立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。10月に政友会のメンバーを大勢入れた第4次伊藤内閣が発足するが、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こし翌34年(1901年)5月に辞任。政友会はその後西園寺公望・原敬らが中心となり伊藤の手を離れるが、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した